アートの聖書

絵画、映画、ときどき音楽

福岡市美術館〜日本美術館の未来

福岡市美術館

ジャコモ・マンズー《恋人たち》1977

名画を所蔵していても良い美術館とは限らないが、良い美術館にある絵画は名画である。目利、空間デザイン、展示が卓抜しているからだ。作品だけではなく空間、美術館もアーティスト。それを教えてくれるのが福岡市美術館である。

大濠公園

福岡市美術館は1979年11月3日の開館。親しみやすい美術館を目指し、約2年半の長期リニューアルを経て2019年3月21日に再開。所蔵する作品は古美術から近現代美術まで約16000点を数える。福岡市中央区大濠(おおほり)公園にあり、博多駅から地下鉄で10分。大濠公園福岡城跡の外濠、15分も北に歩けば福岡ドーム博多湾玄界灘が広がる。

福岡市美術館

公園をヒマワリが彩り外国の観光客が多く、猛暑で湿気の多いイライラも軽減してくれる。15分も歩けば福岡県立美術館があり、街全体がアートを押す。東京より地方の美術館が優れている点は美術館の周り。新潟県立近代美術館信濃川山形美術館霞城公園ひろしま美術館原爆ドーム。美術館は天・地・人の結晶。

野外彫刻

インカ・ショニバレCBE《ウィンド・スカルプチャー(SG)II》2021年

インカ・ショニバレCBE《ウィンド・スカルプチャー(SG)II》2021年

美術館は入り口の野外彫刻で善し悪しが判断できる。入る前から凄い美術館と確信。

草間彌生《南瓜》1994年

草間彌生《南瓜》1994年

出口では草間彌生が見送り。ハロウィーンのジャコー・ランタンより魔除けの効果がありそうだ。福岡市美術館の悪霊退散の役割を果たしている。地獄先生ぬ〜べ〜の鬼の手みたいなもの。

エントランス

福岡市美術館

前川國男が設計した館内はシックで荘厳。かといって息苦しくない。部屋がなくミュージアムショップなども開放されている。同じく前川國男東京都美術館とそっくり。

福岡市美術館

展示を観るには2階に上がる。企画展も常設展もセットになっている。東京では不可能な幅広さ。地方の美術館の特色だ。

キッズスペース

福岡市美術館,キッズスペース「森のたね」

キッズスペース「森のたね」

オーギカナエがデザインしたキッズスペース。福岡市美術館で感動するのは観客の半分くらいが幼稚園や小学生であること。赤ちゃんの泣き声も聴こえるが、それこそが美術館のあるべき姿。もっと日本の美術館は赤ちゃんの泣き声が響かないといけない。美術館なんて月曜休館で床屋と同じ。ちょっと髪切ってくるわ、ぐらいの感覚で美術館へGO。小さい子どもたちにとって今は咀嚼できなくてもアート浴をした芽はいつか花を咲かす。外国人の親子も多く、海外のほうがアートを理解している。

キース・ヘリング

福岡市美術館,キース・ヘリング展

常設展示を目当てに来たので何の企画展をやっているか知らなかった。キース・ヘリングは1枚だけ東京富士美術館で観たことがあったくらい。それにしても凄い絵画がメインビジュアル。これほど性的な要素の強いアーティストの企画展に小学生以下の子どもが多いのは素晴らしい。日本美術の未来を明るくしてくれる。

空間

福岡市美術館

作品と同じくらい素晴らしいのが、空間デザインのうまさ。150点が集結した展示を空疎でも密集でもなく、見事な距離感と角度で詰め込んでいる。

福岡市美術館

美術館は巨大な握り寿司。職人と同じく米(絵画)をギュウギュウ詰めにしてはいけない。逆に握りが弱いと旨みが濃縮しない。ちょうど良い空気が入っていないといけない。

福岡市美術館

ブラボーでファユタスティコな展示。観客は観るアーティストであり、同時に空間もアーティスト。作品、観客、空間が高め合ったとき、至高のアート体験が生まれる。

絵画

福岡市美術館,キース・ヘリング展

キース・ヘリング展は男根祭り。トップバッターも無数の男性器の素描から始まる。男根を愛し、男根に愛されたキース・ヘリング。なんとカラフルな男根たちか。そこに卑猥さはなく、性とは大人の所有物ではないことを教えてくれる。子どもだって性で遊戯できる。

キース・ヘリング《ドッグ》1986年

《ドッグ》1986年

キース・ヘリングのなんたるかを象徴する一枚。外観ではなく内なる本質、深淵、濃淡。真実を覗く顕微鏡を心に持っていた。それがキース・ヘリング

キース・ヘリング《ピラミッド》1989年

《ピラミッド》1989年

ピラミッドは墓であり、死とは新たな生命が生まれること。このピラミッドは母親の胎内、もしくは子宮であり、無数の命や精子がうごめいている。精子がダンスしている。

福岡市美術館,キース・ヘリング展

珍しい自画像。巨大な怪物に飲み込まれ、また体に座っている。服は着ているが怪物とのセックスだ。キース・ヘリングの作品は性慾遊戯。

キース・ヘリング《モントルー1983》

モントルー1983》

音符とは精子である。リズムに乗せて命や人生を宿す精子。音符はおたまじゃくしであり精子と同じ形をしている。オレンジと黄色の暖色同士の配色が見事。暖色は男色。同性愛。音符、音階とは精子の踊りなのである。

キース・ヘリング《キース・ヘリング:84年へ》1983年

キース・ヘリング:84年へ》1983年

時代の終わりと始まりを赤と黒で表現。血と闇。時代の夜明けを人間と空気だけで体現している。

《アンディ・マウス》1986年

《アンディ・マウス》1986年

鳥山明との共作のような童心。悪魔のようで無邪気。きっと筋斗雲にも乗れるだろう。これから少年が性に目覚めていく夜明けを表現している。

キース・ヘリング《ラッキーストライク》1987年

ラッキーストライク》1987年

ラッキーストライクはかつてのF-1のホンダのスポンサーであり、ろくでなしBLUES前田太尊が吸っていた。中学生のときに真似して吸ったことがある。当時は自販機で230円のタバコが買えた。タバコの煙とは魂であり、人間の成仏の化身なのだ。

キース・ヘリング《無題(繁殖の図)》1983年

《無題(繁殖の図)》1983年

ふたりの妊婦と勃起する男根、そして赤ん坊。ここはハーレムなのか。北朝鮮の慶組なのか。凄いのは女同士がハイタッチし性の快楽を燦々している。これから男根を咥える前祝い。背景のオレンジは太陽。緑は草花。太陽の誕生の絵であり、すなわち人類の繁栄。男よりも女のほうが高い位置にある。男が女を性道具にしながら、女のほうが高い位にある。

福岡市美術館,キース・ヘリング展

勃起を神輿のように担ぐ妊婦たち。男の体内の水玉は溢れ出さんばかりの精子。マジで射精する5秒前を描いた祝祭。題をつけるなら《男根バンザイ、勃起よ永遠なれ》

キース・ヘリング《ペルシダ》1986年

《ペルシダ》1986年

赤と緑、視力検査の色に背景を黒にし、ワンポイントで黄色をあしらう。額縁も黒、福岡市美術館の壁も黒。見事。ペルシダとは何者なのか?淫毛をむき出しにした性なる戦士。はたまた子宮の闇を彷徨う旅人か。

キース・ヘリング《無題》1988年

《無題》1988年

言語感覚やキャッチコピーの天才であるキース・ヘリングは無題が多い。観客に託す。お前たちもアーティストなのだと。逆三角形の仮面舞踏会。艶やかなマスカレードをつけた女性が桃色の舌を出している。その下にはヘソではなく女性器が描かれる。眼、舌、膣。男を誘う三種の神器。性の重力を描いた逆三角形。タイトルをつけるなら《ニュートンの誘惑》

キース・ヘリング《イコン》1990年

《イコン》1990年

展覧会のメイン・ビジュアル。一見、平凡。凡庸。ブルーの中にいる赤ん坊。いや、これは赤ん坊の皮をかぶった性行為の後背位。男根の到着を待っている。人類の性行為が後背位から始まったように、性なるルネサンス春画である。

造形

福岡市美術館,キース・ヘリング展

アーティゾン美術館にあるピカソの《道化師》も見事だが、キース・ヘリングの造形はそれを上回る。子どもではなく、子どもを経験した子どもだから創れるアート。

福岡市美術館,キース・ヘリング展

レプリカでいいので部屋に飾りたい。美しいイエロー、左腕は力こぶ、右腕は地平線の彼方をさしながらも頭を垂れている。太陽神であり、羅針盤。これまで男根を描いてきたキース・ヘリングは造形で人間の上半身の意味を示した。

キース・ヘリング《ルナルナ 詩的な狂騒劇!》1986年

《ルナルナ 詩的な狂騒劇!》1986年

「東京は巨大な遊園地」と、大都会を一言で表しきったキース・ヘリングならではの傑作。人生とは何か、世界とは何か?玩具箱であり、人生は舞台劇。踊れ、遊べ、狂え。そんな声が聞こえてくるオルゴールのような作品。

《無題 (踊る三人のフィギュア)》1989年

《無題 (踊る三人のフィギュア)》1989年

キース・ヘリング最高傑作。青、赤、黄。色の三原色が踊る。水と陽と血。青は抱擁し、黄は足を上げ、赤はロッキーのように両翼を広げる。生まれたての子どもが造ったような、生まれたてのアート。鑑賞ではなく出産を見守るような、作品と不思議な握手ができる。性を解放し、性を舞踊し、性を色彩し、性を憧憬したキース・ヘリング。性とはオトナではなくコドモのためにあると教えてくれる。

常設展示室

サルバドール・ダリ《ポルト・リガトの聖母》1950年

サルバドール・ダリポルト・リガトの聖母》1950年

画像引用:福岡市美術館

原田マハの『20 CONTACTS 消えない星々との短い接触』で知り、逢いたかった一枚。福岡市美術館の常設展示室で最高の一枚。ダリの絵画でも最高傑作かもしれない。最も大切な聖母と赤ん坊がが空洞。空は無限。聖母の尊さをダリは光でも高さでも深さでもなく、空洞によって表した。地平線と水平線の無限。究極のロジック絵画にして右脳遊戯。絵画に散りばめられた数々のピース。善も悪も、強も弱も、どれひとつ欠けてもこの世というパズルは完成しない。この世に不要なものなどない。天国は存在するのか?その問いは不要。この世を天国にすればいい。それが聖母。ダリの愛がカンヴァスで爆発した。

東郷青児《木立》1961年

東郷青児《木立》1961年

展示室に入ると、そこは西洋画と日本画家の折衷。驚くべきはジョルジュ・ルオーやモーリス・ユトリロシャガールなどを、日本人画家が圧倒していること。こんな常設展示室は見たことがない。佐伯祐三《街》1927年、藤田嗣治《仰臥裸婦》1931年の傑作に負けないのが東郷青児《木立》。横幅3mを超えるサイズにも驚かされるが、極限まで色彩を柔らかくし、柔軟剤のような芳香と木立、女性のしなやかさが伝わる。日本も西洋も含めて東郷青児にしか描けないタッチ。

横尾忠則《暗夜光路 旅の夜》年代不明

横尾忠則《暗夜光路 旅の夜》年代不明

初めて観た、横尾忠則を。初めて観た、こんなすごいY字路を。左右に散りばめられた両脇の花火。街灯とは花であり花火だった。圧倒的な存在感である闇も、街灯には敵わない。人生の闇など畏れなくていい。俺たちには街灯がある。人生の街灯は必ず存在する。そう言わんばかりの光に満ちている。

アンディ・ウォーホル《エルヴィス》1963年

アンディ・ウォーホル《エルヴィス》1963年

画像引用:福岡市美術館

ふたりのエルヴィスがいる。一卵性双生児のようなエルヴィス。実際に双子の弟だったエルヴィス。生まれながら亡くなった兄、生きながらえた弟。映画俳優としてのエルヴィス、歌い手としてのエルヴィス。人はみな双子である。自分の中にはもうひとりの自分が生きている。どちらも本物であり、どちらも偽物。エルヴィスはもうひとりの自分に銃を突きつけている。自分自身に銃を突きつけている。お前はどう生きる?

マーク・ロスコ《無題》1961年

マーク・ロスコ《無題》1961年

画像引用:福岡市美術館

実物を観ないといけないアーティストの筆頭がマーク・ロスコ。10年前に画集で観たときは「なんだコイツ?ゲージュツカ気取りか?」と思った。しかし、モネ展で実物を観たとき衝撃が走った。名だたる画家でいちばん良かった。目の前に全身紫の服を着た人間が現れたら奇抜さに驚くように、カンヴァスが色の服を全身に纏っている。マーク・ロスコは画家というよりファッションデザイナー。いや、ファッションモンスター。妖艶でも鮮烈でもない。でも強烈に吸い寄せられる。どこまでも透明なえんじ色。いつまでも観ていたくなる。これがマーク・ロスコの力。

アンゼルム・キーファー《メランコリア》1989年

アンゼルム・キーファーメランコリア》1989年

画像引用:福岡市美術館

ヴィム・ヴェンダースの映画『アンゼルム』で知ったアーティスト。メランコリア(深い悲しみ)という題とは真逆に、古代の恐竜のような躍動がある。本当に鉛なのか?まるで生きているよう。今にも動き出しそう。これがアーティストの力なのか。ひとりでジュラシックパークを創造できる。

福岡市美術館,常設展示室

常設展示室の最後に福岡市美術館の素晴らしいところをひとつ。黒楽茶碗を3Dプリンターで再現して触れるようにしている。おっぱいとブツは触ってナンボ。こういう工夫は全美術館で導入してもらいたい。北海道のエスコンフィールドに日本の野球場の未来があったように、福岡市美術館には日本のアート空間の未来がある。future is now。

美術館メシ

カフェ アクアム

福岡市美術館,カフェ

福岡市美術館の入り口にあって出口にあるカフェ アクアム。良い美術館は帰ろうとする者を引き留める。福岡市美術館にひとつだけ注文を言えば、美術展へ再入場を許可してほしい。一度カフェで頭をリセットしてから、もう一度、キース・ヘリングや常設展示室を愉しみたい。

福岡市美術館,カフェ

空間デザインが秀逸。まるで秒針がないかのように、ダリの絵画のように時間が溶けてしまったかのように、ゆったりした時が流れる。

福岡市美術館,カフェ

大濠シュー、大濠プリンのアーティスティックな甘さと抹茶の苦味のバランスは常設展示室そのもの。福岡市美術館は夏の美術館。だからこそ、次は冬に来よう。

アーティゾン美術館〜空間と作品

東京駅

スポーツニッポン校閲部でアルバイトしていた2014年から2016年までの3年間、東京駅は毎日の通勤駅だった。新宿から中央線で東京駅、京葉線に乗り換えて越中島へ。駅構内の移動が1キロ近くある巨大迷路。東京駅は人生の大事な中継点。

ミュージアムタワー京橋

ミュージアムタワー京橋

美術の都は上野だが、白金台の松岡美術館や新宿のSOMPO美術館、八王子の東京富士美術館など、東京都の美術力は底がしれない。東京駅から歩いて5分のアーティゾン美術館も異様なほどの美のブラックホール。本来であれば常設展示室を持たない美術館は大きなマイナス点になるが、圧倒的な企画力と展示力で他館を上回る。格が違うとはこのこと。

アーティゾン美術館

アーティゾン美術館

「ARTIZON」(アーティゾン)は、「ART」と「HORIZON」を組み合わせた造語。創設者はブリヂストンの創業者である石橋正二郎。1952年に東京・京橋に新築したブリヂストンビルの2階に開館。2020年1月にミュージアムタワー京橋にブリヂストン美術館からアーティゾン美術館に生まれ変わった。ビルは大型ガラスで囲まれ吹き抜けになっている。

アーティゾン美術館

エレベーターで上がると倉俣史朗によるオリジナルの家具。単なるインテリアではなく、こうした小物が生み出す静謐な空気が美術館に来る客を濾過するフィルターになっている。しかもアートに座れる。この貴重さは他の美術館にはない。チケットは事前予約。時間ごとに入場が区分けされているから鳥獣戯画展のような地獄の混雑がない。Web予約なら1200円。ロビーで買えば1500円。300円の差があるから、駆け込み客が少ない。見事な戦略。他の美術館も見習うべきマーケティング手法。

これだけ凄い企画展なのに空いているのが異様な空気。アーティゾン美術館の空間づくりの上手さはアート体験になくてはならないもの。絵画を観るときは空間も観ないといけない。

アーティゾン美術館

2024年7月27日から10月14日まで『空間と作品』を実施。訪ねたのは8月20日の火曜日。石橋財団コレクション144点を6・5・4階に展示。これで1200円は破格。WHO、Why、Where。3つの謎がトライアングル、凄まじいアートの満漢全席。近年の日本美術展の最高に位置する。

アーティゾン美術館

トップバッターは17世紀の円空《仏像》。アートの師匠は大好きらしいが、これはインパクト薄。仏像はフィギュアの走り。両方あまり興味がない。

アーティゾン美術館

続けて絵画へ。ここからが本番。

アーティゾン美術館

カミーユピサロリードオフマンを務めるが、これも弱い。しかし、ここから怒涛の名作ラッシュアワーが訪れる。

パブロ・ピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》 1923年

パブロ・ピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》 1923年

唐突にパブロ・ピカソ。線や輪郭がハッキリしており、良い作品ではない。40代前半「新古典主義の時代」の作品。パワーがない。しかし、このあとピカソピカソである所以の作品が押し寄せる。拳闘のジャブとしての絵画。

円山応挙 《竹に狗子波に鴨図襖》

円山応挙 《竹に狗子波に鴨図襖》

円山応挙の襖絵のために和室を再現。動物が可愛い。江戸時代にこの筆致とは。

円山応挙 《竹に狗子波に鴨図襖》

しかも畳の上に座っていい。これぞ美術展のあるべき姿。

佐伯祐三《テラスの広告》1927年

佐伯祐三《テラスの広告》1927年

佐伯祐三はリビングに飾るスタイル。ソファに座って鑑賞する。

佐伯祐三《テラスの広告》1927年

パワーはすごいが、やや色彩がとっ散らかりすぎている。佐伯祐三の中ではイマイチ。

アリスティド・マイヨール《欲望》1905-08年

アリスティド・マイヨール《欲望》1905-08年

エスカレータで5階へ降りる。ロビーの奥にあるのがアリスティド・マイヨール《欲望》。見過ごす人も多い。なぜ、これほどの傑作をロビーの端っこに展示するのか。アーティゾン美術館からの挑発、アジテーション。本当の美術好き、美術館を隅々までしゃぶり尽くすアート・ラヴァーしか観られない。ひろしま美術館と同じく、マイヨールの彫像がある美術館は素晴らしい。女は右手で助けを求め、右膝でしっかりガードしている。しかし、このあと快楽に溺れるのは女のほう。女が男をエロスの沼に堕とす。その官能の夜明けを捉えている。

青木繁 《自画像》  1903年

青木繁 《自画像》 1903年

5階のトップバッターは青木繁。今まで何作か観てきて良いと思ったことがないが、これは西洋の自画像にも迫る。

ヴァシリー・カンディンスキー 《 二本の線 》1940年

ヴァシリー・カンディンスキー 《 二本の線 》1940年

なんたる背景の色。グリーン・クリーム色。柔らかい。一見、変哲もない視覚の中にアートとは何かが凝縮されている。絵画に音はないが、音楽はある。絵画から音は聴こえないが、歌は聴こえる。それこそがカンディンスキーのアート。

ジャクソン・ポロック 《ナンバー2、1951》  1951年

ジャクソン・ポロック 《ナンバー2、1951》 1951年

隣にジャクソン・ボロック。クリーム色から漆黒。いや、闇色。しかし気品がある。温もりがある。カカオ100%。Paint it Dark chocolate。これぞSweet Emotion。

パウル・クレー《島》1932年

パウル・クレー《島》 1932年

古代遺跡のような、血の海のような、インカの目覚めを感じるパウル・クレー。ここは無人島なのか、獄門島なのか。それても天国の楽園なのか。答えは絵でなく観るものの心の中にある。

パブロ・ピカソ《道化師 》1905年

パブロ・ピカソ《道化師 》1905年

初めて観るピカソのブロンズ像。絵画は歴代トップクラスなのに造形まで凄いとは。ミケランジェロ以上に神様から才能をもらったアーティスト。笑っていないのに笑っている。笑っているのに笑っていない。声なき声を発する。不気味さと温かさ。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》  1876年

ルノワール 《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》 1876年

フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》に迫れるのはルノワールしかない。肌には青い斑点があり、死相にも見える。不気味だ。しかし、ブルーは熱い色。斑点は少女の宣戦布告。足の組み方は『ペーパー・ムーン』のテイタム・オニールの虚空と煙草。少女は年齢より先の世界を見つめている。遥か先の時空を生きている。地面に足がつかない。この世を浮遊している。浮世している。

パブロ・ピカソ《女の顔 》1923年

パブロ・ピカソ《女の顔 》1923年

6階にあった凡庸な作品とは違う。白だけで勝負できる。それがピカソ。背景に青の時代、髪の毛は古典的。女の肌にエコルー・ド・パリを生き抜く年輪、時代が表れている。とてつもない生命力。

エドゥアール・マネ《自画像》1878–79年

エドゥアール・マネ《自画像》1878–79年

珍しいマネの自画像。ポーズを決めているから最初はそこに眼を奪われる。服のセンスもいい。しかし、自画像は背景を見なければいけない。ゴールドの炎、黄金のプライド。それは空中ではなく地面にある。マネの矜持は大地に根ざしている。

古賀春江《素朴な月夜》1929年

古賀春江《素朴な月夜》1929年

この展覧会で最大の出逢いが日本人画家たち。ひとりが古賀春江。女性とは思えないタッチの強さだと思ったら男性だった。初めて作品を観たと思ったら6月に三重県立美術館で観ていた。まったく印象に残らなかった。この絵は別格。テーブルの下にリンゴがある。地面から生まれてきたよう。下から上ではなく、上から下への重力によってリンゴが誕生するかのように。この手の絵に意味は要らない。好きなものを詰め込めばいい。この絵はそれぞれの物体が主役を争うフルーツバスケット

国吉康雄《夢》1922年

国吉康雄《夢》1922年

もうひとりが国吉康雄アンリ・ルソーの模倣かと思ったが、そうではない。明確な森ではなく気体のような森。緑の蜃気楼。そこに力強い植物とチャーミングな動物がいる。幻惑的、蠱惑的。どこか官能的でもある。

ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》 1904-06年頃

5階のトリを飾るのがセザンヌ。この1枚を観るために来た。セザンヌの数あるサント=ヴィクトワール山のなかで晩年の作品。ただ、最もパワーを感じない作品ではある。それを確かめられただけでも意味がある。

アーティゾン美術館

アートの満漢全席、壮大な美も旅もいよいよフィナーレの4階。美の階段を下りていく。しかし、傑作に関しては最後のフロアが最も多い。ちょっと書ききれない。厳選させてもらう。

アンリ・マティス《縞ジャケット》1914年

アンリ・マティス《縞ジャケット》1914年

トップバッターはマティス。縞ジャケットと題しているが、すごいのは眼。ゴールドの瞳なのに、それが陰になっている。月の美しさは半分は太陽の力。人間も同じ。その人そのものが素晴らしいが他者がいて輝く。マティスは一枚でそれを表現している。

岸田劉生《麗子像》1922年

岸田劉生《麗子像》1922年

絵画は実物を観ないとダメだ。以前は良さがわからなかった。気持ち悪いと思っていた。しかし、実際の絵を見ると愛情に溢れている。色にぬくもりがある。人間の価値は顔ではないように、単なる美少女に描くことが愛情ではない。可愛い子を描いたら自然にこうなったのだ。

藤田嗣治《ドルドーニュの家》1940年

藤田嗣治《ドルドーニュの家》1940年

藤田嗣治の最高傑作と言われても否定しない。むしろ大いに推奨する。乳白色の極地。絵画が表せる白で、これほどの白はない。雪よりも白く淡い。そして温かい。藤田嗣治が白の頂点・モンブランに登頂した瞬間。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《少女》1887年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《少女》1887年

ルノワールもうひとつの少女。服と瞳をブルーに。髪だけが成熟している。晩年のルノワールの眼に少女はどんな存在だったのか。ルノワールと少女を考える上で重要な一枚。

クロード・モネ《睡蓮の池》 1907年

クロード・モネ《睡蓮の池》 1907年

初期の睡蓮の池。これは睡蓮ではなく池の絵。もっと言うなら水面の絵。もっともっと言うなら水面に反射する太陽の絵。これまで観た睡蓮の中でいちばんの傑作。

国吉康雄《横たわる女》1929年

国吉康雄《横たわる女》1929年

再びの国吉。下半身だけ丸出しはよくある構図ではある。しかし、陰毛が淫毛となり、ソファの紅蓮とあわさって最も官能の一枚となっている。日本の裸婦画の頂点にいる。

青木繁 《海の幸》 1904年

青木繁 《海の幸》 1904年

青木繁の凄さを最も雄弁に語る一枚。こちらを見つめている女性に尽きる。いや、これも男性なのか?どちらでもいい。なんという悪魔のチラ見。取り憑かれそうな表情。取り憑かれてもいい表情。取り憑かれたい表情。

ポール・セザンヌ《帽子をかぶった自画像》1890–94年頃

ポール・セザンヌ《帽子をかぶった自画像》1890–94年頃

自画像が多い画家のひとりであるセザンヌ。ここまでナルシストっぷりを発揮した自画像は珍しい。酔っ払いの眼であり、世の中を見下している。どうせ俺の絵なんかわからないだろう。ざまあみやがれという声が聞こえてくる。

パブロ・ピカソ 《ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙》1913年

パブロ・ピカソブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙》1913年

この展覧会に存在する中で最大の傑作であり、藤田嗣治と並んで最も実物を観ないといけないアート。これをピカソの最高傑作と言われても首を横に振らない。油絵だけでなく砂や新聞紙を使っている。色や形ではなく質感の絵画。ゴッホの凸凹とは明らかに違う。もっと儚く繊細で力強い。ピカソピカソである理由を見せつけてくれる。

美術館メシ

ミュージアムカフェ

アーティゾン美術館,ミュージアムカフェ

ミュージアムカフェ

美の満漢全席を味わったら腹が減った。ミュージアムカフェはランチタイムが終わり、ドリンクのみだった。

ミュージアムカフェ

柿の葉茶

柿の葉茶、650円。美味しかった。美術館で働くひとの中で、このミュージアムカフェでの仕事に憧れるひとも多い。その理由がわかった。次は11月。巨大な美の巨塔に屈するわけないはいかない。次はパスタも食べよう。美を骨の髄までしゃぶり尽くす。

深谷シネマとマジェスティック、吉永小百合

映画より映画館のファンだ。生まれ育った奈良の地元には映画館がなく『ドラゴンボール』『ドラえもん』『ルパン三世』の新作が公開されると桜井市民会館に足を運んだ。

スクリーンの緞帳(どんちょう)には、大和の古地図が大きく描かれ、タイムスリップしたような魔法にかけてくれる。銀幕の暗闇に飛び込み、放たれる光が自分を生まれ直してくれた。小さな箱を出て日常に帰るときは違う人間になっている。

映画館は「どこでもドア」だ。外国にも宇宙にも行ける。映画館は「タイムマシン」だ。太古にも未来にも行ける。だから映画はテレビやPCではなく、劇場で観たい。

埼玉にある『深谷シネマ』を知ったのは偶然だった。見逃したジョニー・デップの上映館がないかfilmarksで探すとヒットした。新宿からはJR高崎線で約1時間半。往復3時間で2,600円。移動のほうが上映時間より長く、チケット代より高い。

深谷シネマは廃業した300年の酒蔵を映画館に改修。元禄の建物をミニシアターとして令和につなぐ。

深谷市は今年の大河ドラマ・新1万円札のモデルである渋沢栄一の出身地。駅や町は煉瓦造りが多く、どこか異国情緒がある。

民家の玄関に埴輪があったり、県道のなかに突然「ふっかちゃん横丁」が出現したり。砂漠のなかの黄金城のようだ。

酒蔵をシアターにする突飛な発想といい、町自体が面白い。映画館まで歩いていると酒屋が多いことも分かる。酔っ払いが多いのか、右脳が発達しているのか。故郷と匂いが似ている。もう少しで映画館というところで大粒の雨が降ってきた。傘を置いてきたけど、アクシデントも映画館に足を運ぶ楽しさ。帰りに雨が降っていても、映画が良ければ傘が無くても駅まで歩ける。それがシネマの魔法だ。

2010年にできた深谷シネマは、意外と言っては失礼だが思ったより綺麗だった。入館すると奥から40代くらいの男性が出てきた。ボランティアだろうか。

チケットは1,200円と少し控えめ。ちゃんとパンフレットが置いてあるのがうれしい。これから観る『グッバイ!リチャード』を買う。

待合室には映画に関する書籍やパンフレットが並ぶ。来館した映画監督や女優のサイン色紙も自由に手に取ることができ、大林宣彦木村大作片桐はいりなどメッセージ付きの色紙が温かい。何より眼を引いたのが吉永小百合だ。

1字1字が美しい。サインを超えた手紙。深谷シネマのために書かれたものだが、素晴らしい手紙は第三者の心も打つ。吉永小百合の愛情を受けた深谷シネマは、これだけでこの世に生まれた意味がある。

観客は僕を除いて3人。もちろん赤字経営だ。有志による基金で成り立っている。

予告編が10分。シネコンの予告編はうるさいだけの大作が多くてうんざりするが、ここは選りすぐりの作品を選んでいるから楽しい。20時、終了。本来はここからもう1作品の上映があるが、緊急事態宣言のせいで最終上映の時間が短縮されている。非日常は終わり、また日常の世界へと戻っていく。

出口では常連客っぽいおじさんがスタッフに「雨あがったね」と話しかけていた。

松岡美術館〜麗しき均衡のミュージアム

松岡美術館

奈良出身の田舎者なのに白金台に住む女性から好意を持たれることが2回あった。ひとりは名古屋出身の会社の上司。よくご飯に誘ってくれ、エヴェレストに行くため会社を退職したときは山の生活を詳しく調べ、大量のボディシートをくれた。かつては映画記者で泣くことがないと言い切っていた美人の上司。しかし唯一、号泣した映画がクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』と言って、ちょっと惚れた。連絡先もわからないが、もう一度、逢いたいひと。

松岡美術館

もう一人はヨガインストラクター。夜のお店で副業もしていた。究極のミニマリストでクローゼットもない部屋の壁にアンディ・ウォーホルの《キャンベル缶》の絵が一枚。5万円くらいと言っていた。別に美術好きでもないが、なぜがその絵に呼ばれた気がしたという。部屋にお邪魔して一緒に昼ごはんを作ったりした。そんな白金台へは新宿から山手線に乗り目黒で都営三田線に乗り換える。それにしても最近の山手線はよく揺れる。吊り革を強く握っていてもロデオのように振り落とされそうになる。電車も夏バテしているのか。

松岡美術館

松岡美術館は1975年11月25日、新橋に開館。創設者の松岡清次郎のコレクションは凄まじい。残念ながら常設展示は彫刻だけで貴重な絵画を観られるのは一部。倉庫で眠っているのか他館に貸し出しているのか。日本の美術館は転売ヤーなので、そこさえ改善すれば世界に誇る美術館になる。とはいえ、写真OKが多く、かつシャッター音は禁止。エアシャッターのアプリがないといけない。ガラスケースの展示も多いが一部の絵画や彫刻は剥き出し。このバランス感覚は他の美術館が見習うべき要素が詰まっている。

松岡美術館

1階のロビーが展示室になっているのは山形美術館と同じ。いきなりアートの森に入り込む。

松岡美術館

展示されている作品は紀元前の古代ギリシア・ローマ彫刻。そこまで歴史は感じず、50年前に造られたと言っても違和感ない。それはシロガネーゼに展示していることも大きいだろう。ミシュランの星つきレストランをボロアパートで食べたら味が違うのと同じだ。

松岡美術館

食前酒のあとの前菜・第1展示室は、さらに古い古代エジプト文化の美術品。これも同じく、歴史はそこまで感じない。

松岡美術館

第2展示室は飛ばして展示室3のポワソン(魚料理)は古代東洋彫刻。ガンダーラの仏教彫刻、インドのヒンドゥー教神像やクメール彫刻がある。

松岡美術館

ネパールやチベットで観た印象とは全然違う。やはりアートは旅である。観る場所が重要なのだ。とはいえ日本で観られるのは貴重。これ程ありがたいことはない。

ポール・シニャック《オレンジを積んだ船、マルセイユ》1923年

ポール・シニャック《オレンジを積んだ船、マルセイユ》1923年

2階へ上がってメインディッシュ。トップバッターは松岡美術館が所蔵するポール・シニャック。バランがとれている。傑作ではないがリードオフマンのチョイスとしてはバッチし。

アンリ=エドモン・クロッス《遊ぶ母と子》

アンリ=エドモン・クロッス《遊ぶ母と子》

シニャックの友人アンリ=エドモン・クロッス。母と子の柔らかさ、華やかさも見事だが奥の船のおっさん。親父か知らないが、男はつらいよとの対比が見事。

モイーズ・キスリング《シルヴィー嬢》1927 年

モイーズ・キスリング《シルヴィー嬢》1927 年

お馴染み。吸い込まれそうな瞳。しかし、それは赤の服。そして、もう一つの瞳である指輪があるからこそ。そしてブラックホールである背景の黒。キスリングの真骨頂。

アメデオ・モディリアーニ《若い女の胸像(マーサ嬢)》1916-17年頃

アメデオ・モディリアーニ若い女の胸像(マーサ嬢)》1916-17年頃

キスリングと対照に、あえて人間の中で最も魔力の宿る眼を描かなかったモディリアーニ。作品はキスリングの圧勝だが、「描かないことを描く」表現は、写真はもちろん、映画でも音楽でもできないタブローの力。

モイーズ・キスリング《グレシー城の庭園》1949 年

モイーズ・キスリング《グレシー城の庭園》1949 年

初めて見るキスリングの風景画。さすが鮮やか。麗しい。しかし今ひとつ足りない。やはりキスリングは女性像。

モーリス・ド・ヴラマンク《スノンシュ森の落日》1938 年

モーリス・ド・ヴラマンク《スノンシュ森の落日》1938 年

圧倒的な傑作がモーリス・ド・ヴラマン。太陽をど真ん中に投げ込む直球絵画。枝が静脈であり大地が動脈。夕陽は心臓。真の風景画とは人物画であることを示す大傑作。本物を観ないと実感ゼロ。ヴラマンクの中でも有名作品ではなく撮影不可なので、松岡美術館で本物を観てほしい。

山種美術館と日本の問題点

山種美術館

日本の美術館は二つに分かれる。アートを鑑賞する場所、アートを保管する場所。ひろしま美術館東京富士美術館山形美術館が前者。常設展示室が充実しているからだ。そのほかは所蔵品(コレクション)を買ったものの、自館での展示は少なく、ほとんどがレンタル料を徴収して他館に貸し出している。やっていることは転売ヤーと変わらない。一方で、他館にも貸さず自館でも展示せず、倉庫にアートを眠らせる美術館もある。恵比寿駅の西口を出て渋谷川を渡り、長い坂道を登ると渋谷は谷の街だと実感できる。谷の声を聴け。昭和からある八百屋さんの隣に突如として現れる。

山種美術館

山種美術館はチケットを買うとアンダーグラウンドへ降りていく珍しい形式。

山種美術館

今回、観たのは『東山魁夷と日本の夏』の企画展。原田マハのファンの間で有名だ。好きな画家10人にも挙げ、好きな絵画トップ10にも東山魁夷の『道』を挙げる。

山種美術館

唯一、撮影OKの《緑潤う》1976年。輪郭線がなく、色合いは他の画家では出さない独自の力がある。しかし、それが良いかといえば別。山や海の自然の力、季節がもつ力を感じない。構図も心打たれるものがない。他にも10点以上が展示されているが、東山魁夷とは相性が良くなさそうだ。《道》は実際に観てみたい。

山種美術館

残念ながら良いと思った絵が一枚もなかった。強いて挙げるなら上村松園の《夕べ》だけ。作品の展示数が少ない。これで1400円は高い。そして若い女がひとり、監視員がいないことを狙ってスマホで写真を撮りまくっていた。注意しようかと思ったが、係員がj巡回しない、やる気のない美術館にアホらしくなった。竹内栖鳳《班猫》や速水御舟《炎舞》の重要文化財は倉庫で眠っている。アートは過保護すぎてもいけない。人に見られてナンボだ。1年にわずかの期間だけ展示されるなら、何のための所蔵品なのか。それなら常設展示してくれる他の美術館に売却してほしい。帰りに銭湯に寄った。恵比寿の住宅街にある改良湯。悪魔的にキンキンに冷えた水風呂、炭酸泉はちょうどいい温めの燗。なぜかバック・トゥ・ザ・フューチャーの音楽がガンガンに流れる不思議な空間。銭湯のほうが美術館より、よっぽどアートを理解していた。

細田守 虹をかける地平線

細田守

夏の入道雲を眺めるたび、大学生の頃、彼女を自転車の後ろに乗せて京都の鴨川沿いを走っていた日を思い出す。そう話してくれた人がいた。

新海誠が「音」を操るマエストロなら、細田守は「絵」の語り部。どこまでも視覚的であり、絵が物語る。絵本の世界に迷い込むような錯覚をくれる。アニメーションという迷宮。白と青と緑。細田守の三原色。細田守が歩む道は、細田守という誰でもない未知である。

時をかける少女』(2006)

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東映を卒業した細田守、第二のデビュー作。配給は角川ヘラルド映画。デビュー作にはアーティストのすべてが凝縮される。これまで春の映画だけを使っていた細田守が、夏というオモチャで遊戯する。

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青空と雲、そこに昼間のカクテル光線を添える。それだけで青の時代が蘇る。夏の匂いが流れてくる。なんという情緒。

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夕暮れ色。ここでも細田守は映像では不可能だった、夏の匂いを届けた。

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時間の地平線から始まるオープニング。「時間」は少女によって「時」に変わる。

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冒険者たち』『明日に向かって撃て』。映画で男2人に女1人のグループは珍しくない。しかし、今回の主人公が少女。

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少女は常にはみ出す。社会に抗う。真琴は風呂桶に収まらない。「今」に窮屈を感じている。だから「過去」と「過去からの未来」を往復する。

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真琴のスカートはやたら短い。やたらと身体を傷つける。真琴は何度も転んでは立ち上がる。何と闘っているかは分からない。だが、ひとは何かと闘わなければいけない。それが生きること。

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真琴のキャラが躍動するのは秀逸な学園生活の描写による。福島先生のほかにキャラが立っているわけでもないのに、ひと時のエピソードが胸にこびりつく。居そうで居ない、居ないようで懐かしい学生たち。

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秀逸なのはプロレスごっこ。時計のようにグルグル回る様は、時をテーマにした本作と重なる。時間をジャイアントスイングしている。

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投げる、打つ、守る。それぞれ動きは違うが、どれかが欠けても野球はできない。男子に混じって野球をやる女子は珍しい。これこそ『時をかける少女』が恋愛映画ではなく、ジェンダーを超えた友情や愛情の話であることを象徴している。

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奇天烈なSF物語が主役ではなく、3人の若者がそれぞれの岐路に立ち、決断する物語。

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今作には、ふたりのメッセンジャーがいる。ひとりは千昭。この未来人は『白梅ニ椿菊図』という一枚の絵画を見るためだけに過去に来る。

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生産性や使命感があるわけではない。ただ「見る」ためだけにタイムトラベルをする。そこに人生を変えてくれる予感がある。まさに我々が映画館に足を運ぶのと同じ。

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千昭がカラオケで繰り返し歌う「Time waits for no one」は真琴たちへのメッセージ。Future is now。未来は今なのだ。

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もうひとりが真琴の叔母の芳山和子。ここにもうひとつのボールが存在する。かつて「時をかけた少女」から「時をかけようとする少女」へ。

いつまでも深町が未来からやって来ることを待ち続ける和子。しかし、未来は「未だ来ない」と書く。自分の後悔を真琴に託し、「待ち合わせに遅れてきた人がいたら走って迎えに行きなさい」と背中を押す。

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そして自身が修復する絵は、千昭だけでなく深町(実写版の未来人)が見るかもしれない。だから和子は部屋にラベンダーの花を飾り、絵を修復する。未来を変えようとする。

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ひとは時間に縛られる生きもの。だが「時」は自らの意志で動かせる。だからタイトルは「時間をかける」ではなく「時をかける」

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真琴はタイムリープの力ではなく、自らの意志で未来を変えようとする。未来を乗り越える。今作は未来へ向かう作品ではない。未来を超える話。千昭が言う「未来で待ってる」も、真琴の言う「走っていく」も、実際に行くわけではない。

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細田守が生み出す人物は坂道を下る。他の映像作家が階段を登らせるのに対し、日常へ降りる。登山でいう下山。本当に尊いのは登頂ではない。次の山、未来を変えに向かう下山なのだ。

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ラストで真琴はボールを投げる。千昭のいる未来へ全力投球で。

サマーウォーズ』(2009)

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新海誠の第二作『雲のむこう、約束の場所』にはその後の作品のあらゆるエッセンスが詰め込まれている。細田守のオリジナル映画の第二楽章である『サマーウォーズ』も例外でなく、細田守の骨格は今作で完成する。

すべての作品はサマーウォーズに通ず。

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カナカナのみの清涼飲料水のようなタイトル。しかし「合戦」の英単語が入っているように、『サマーウォーズ』は細田守が最も気概を込めた作品と言える。27人の大家族や多くのメッセージを詰め込んだ。これでもかと詰め込んだ。

中国料理の満漢全席。観客はとても食いきれない。観客を押し倒す。観客を信じている。
ここに細田守の強さがある。狂人にして強靭。あらゆるアーティストが白旗をあげる。兜を脱ぐ。

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オープニングは「OZ」という仮想世界。小磯 健二が数学オリンピック日本代表に落選したエピソードで幕を開ける。ここに細田守が実写ではなく、アニメーションを作る意味がある。

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たとえ現実に窒息しようとも、我々の世界はひとつではない。フィクションという世界を創造できる。数学の力で好きな女の子(篠原 夏希)の誕生日の曜日を当てても箸にも棒にもかからないが、パラレルワールドではデジモンと戦う武器となる。数学は少年の運命を変える。

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女は生まれてからずっと何かのSOSを発する。それは学校のマドンナである夏希も例外ではない。

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少女はいつもスピードを求める。絶望に追いつかれない速さを。だから男よりも女のほうが早く大人になる。少年はやがて男に変わるが、少女は最初から女。生まれながらに絶望を知っている。

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舞台は一瞬の東京から信州の上田へ。緑と青を描かせたら細田守の右に出るものはいない。

今作は核家族の少年が戦国時代にタイムリープし、もうひとつの家族を知り、家族を超えた家族になる物語。血のつながりが家族ではない。

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細田守は風呂に意味を持たせる。風呂は解放の場。裸の付き合い。夏希と子どもたちを通して、親戚が本当の家族になる物語を示唆している。

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サマーウォーズの季節が夏でなければならない最大の理由は、高校野球。血の繋がりもない赤の他人が甲子園というひとつのベクトルに向かう。もうひとつの家族。夏を越境したとき少年は別の人生に生まれ変わる。

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テレビの画面越しの世界は、もうひとつのOZ。そして、もうひとり、家族を知り、家族に成長する人物が侘助

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携帯でメールをする侘助は幼い少女から「なにを見てるの?」と聞かれ「巨乳のお姉ちゃん」と答える。何気ないシーンだが、この刹那に細田守のスタンスが潜在している。子どもを子ども扱いしない。常に細田守のギアはニュートラル。地平線の眼差し。

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サマーウォーズの中で異彩を放つ栄おばあちゃんはドラクロワが描いた『民衆を導く自由の女神

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その意志は曾孫の夏希に受け継がれていく。細田守の作品は誰かにバトンを渡す。襷をつないでいく。デジモンも、時をかける少女も、おおかみこどもと雨と雪も、バケモノの子も。だから『サマーウォーズ』の表紙は健二ではなく夏希。

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死は別れではなく、結び。バラバラだった家族は、栄ばあちゃんの死によって結束する。

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この世から旅立つことで、もっと大きなものの一部となる。サマーウォーズは、何度も絶望の淵で入道雲が見守る。栄ばあちゃん。空からの手紙。

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かつて侘助を守るると決めた、栄ばあちゃんから陣内徳衛(夫)への空への手紙でもある。

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劇中の変化は食べものにも表れる。細田守は食べものを結びとして描く。陣内家の親戚一同は、おむすびを食べながら野球の円陣を組む。

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花札。人生は博打であり、ゲームである。そして夏希の動物はウサギ。兎に強さのイメージはない。キングカズマも兎。世間のイメージを覆す。逆張り細田守

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合戦が終わり、新たな人生の戦に向かうとき、栄ばあちゃんは笑ってくれる。微笑みではなく、大笑い。いや、福笑い。

おおかみこどもの雨と雪』(2012)

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序破急。本作は、細田守で最も重力を持つ作品。スタジオ地図としてのデビュー作。細田守は何度も生まれ変わる。これほど美しい重力は、実写の日本映画でも存在し得ない。奇しくも新海誠の最高傑作も3作目の『秒速5センチメートル

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愛くるしい雪と雨。音やセリフがなくとも、可愛らしい子どもたちだけで笑顔がこぼれる。絵の力で寄り切りつつ、今作は文学としての力も図抜けている。

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我々がアニメ映画を観る理由は、時に実写を凌駕するリアリティが迫ること。無から命を作ろうとする創作には、出産と同じ。実写とは違う得体の知れないパワーが宿る。その日本代表、世界遺産が『おおかみこどもの雨と雪

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オープニングは花に囲まれた《花》。この映画は花が母として育つ物語。雪も雨も花を育てる。

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唯一、名前のない《彼》。おおかみの名前はきっと「雲」だ。雲は雪と雨を降らせる。花のもとへ雪と雨を届ける。

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今作の入道雲は《彼》である。

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妊娠中の花を助けるキジの鍋焼きうどん。人間も動物も、誰かの命を奪うことで新しい命を宿す。キジは《彼》の死因。生命はループする。

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閉塞の東京から開放の富山へ。田舎のお風呂。3人とも人生を生まれ直す産湯につかる。

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花は野菜を育てるが、簡単にはいかない。人間も狼も思い通りにいかない。花にとって畑は社会そのもの。

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多めに野菜を作ってお裾分けすることで村という社会と繋がれる。たかが野菜、されど野菜。

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冬、雪の絨毯は東京には無い無の世界。細田守は雪山を登るのではなく、坂道を走って下らせる。

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日常に降りていく。雪原が親子を迎え入れる。雪の色は雲と同じ。父親でもある。

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花が彼と出逢って変わったように、雪も草平と出逢って変わる。父と同じく、本当の自分をさらけ出すことで、真実の自分を知る。

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そして、雨は獣と出逢う。自分の世界を見つけ創造していく。人生は誰と出逢うかに集約される。雪は女としての自我に目覚め、雨は雄としての自我に目覚める。

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人間も動物も、自然も社会も等しい。ここにも細田守の地平線の眼差しは存在する。

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花は彼の死因となった鳥を添える。そしてラストで笑顔の花が咲く。

『バケモノの子』(2015年)

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おおかみこどもの雨と雪』で境地に達した細田守の返し歌、アンサーソング。フォーククルセダーズが『イムジン河』をアレンジして『悲しくてやりきれない』を作ったように、今作は『おおかみこどもの雨と雪』のアレンジ曲。

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おおかみおとこの《彼》ができなかった子育てのタスキを熊徹につなぐ。だから育ての親はバケモノ。蓮が大学に入ろうとするのも《彼》の人生をやり直そうとしている。

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後半、突如現れる青いワンピースの楓は花の化身。もしくは雪が成長した姿。花や雪の魂が輪廻転生したもの。

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熊徹の服や剣の鞘は赤であり、花や雪が着ていた青のワンピースと対極に描く。本作では性別の違いも意識している。女は自分ひとりで女として完結するが、男は誰しもが父親との半世界を生きる。父と子はニコイチ。だから熊徹と九太は鏡の関係であり、最後にひとつとなる。

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渋谷と渋天街も鏡。渋天街は天涯孤独の言い換えだろうが、なんと心地よい旋律だろう。

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今作でも食事が重要な意味を持つ。他人が作った料理を体内に入れるのは相手を受け入れたことを表す。

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熊徹の卵かけご飯を拒否していた九太は、やがて熊徹を受け入れ、今度は熊徹のために料理を作る。

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そして、細田守の最大の仕掛けが、蓮と九太。ふたつの名前を持たせたこと。人間の世界(渋谷)とバケモノの世界(渋天街)のふたつを生きる。大谷翔平のような二刀流。

蓮は九太に生まれ変わり、ふたたび蓮に生まれ直す。ただし、熊徹を胸の剣として宿す。

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サマーウォーズ』以降、細田守の代名詞であるラストの笑顔。入道雲を従えた熊徹の笑顔は、どのラストシーンよりも晴れやかで輝いている。

未来のミライ』(2018年)

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細田守において最も完成度の高い作品。作家性がスクリーンに漲っている。

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舞台は横浜。鳥瞰ショットからのヨーイドン。細田流の未来飛行。細田守は未来へ行かない。未来を現代に連れてくる。未来を今に降らせる。

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過去には行くが、未来には行かない。未来のミライちゃんも、現在に降りてくる。

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くんちゃんは階段を登らない。人生を登山に例える人がいるが、くんちゃんは山を登らない。未来と出会うとき、いつも階段を降りる。未来は日常にある。

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ひな祭りの人形をしまう何んでもない日常が面白おかしく輝く。細田守は他の作家が素通りし、捨ててしまう食材を拾う。本当に美味しい部位を知っている。

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細田守は地平線の眼差しをもっている。だからこそ、日常も非日常も対等に描ける。動物も人間も対等に描く。子どもを子ども扱いしない。

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くんちゃんの可愛さ、画力。子どもはわがままだから無邪気。邪気がない。細田守の絵はマイナスイオンより澄んでいる。

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重要なお風呂のシーン。未来ちゃんを育てるのはお父さん。くんちゃんによって、お父さんは成長する。

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子どもは親を困らせることで、親を親として成長させる。くんちゃん、お父さん、お母さんのバランスが秀逸。くんちゃんと母親は性格的に姉弟のようであり、お父さんはふたりからの影響を受けて変化していく。

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かつてのお父さんと同じ、自転車に乗れないくんちゃんが曾祖父から「遠くを見ろ」と教わることで、自転車に乗れる。お父さんを成長させる。

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くんちゃんの口癖は「好きくない」。嫌いとは言わない。何かを否定する。くんちゃんがオモチャを片付けないのも既成概念を破壊するため。今の自分を超えるため。

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くんちゃんは未来のくんちゃんに抗う。忠告を無視して電車に飛び乗る。未来の自分を超える。これが本作で最も力強いメッセージ。

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架空の東京駅で、くんちゃんはアイデンティティを確認する。そして、自分は自分でしかないことを悟ったとき、未来ちゃんを受け入れる。

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細田守は未来の世界を描かず、過去にだけタイムリープする。未来は時間ではなく、人だから。

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ひとは誰もが誰かの未来である。だからこの世に生きている。存在するだけで意味がある。将来の不安を抱えつつも、遠くを見ながら、どこまでも行こう。あるがままに、わがままに。

『竜とそばかすの姫』(2021年)

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新海誠に出逢ったのが『君の名は。』だったように、細田守に巡り会えたのも第6作。同じ新宿のTOHOシネマズだった。

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舞台は高知。長野でも富山でもない。東京からどんどん離れていく。GO LOCAL。

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『ウエストサイド物語』や『レ・ミゼラブル』『オペラ座の怪人』などミュージカルは都会が多い。だが、今作は田舎だから躍動する。ベルでなく鈴として高知で歌を取り戻す物語でもある。

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鈴は通学の際、坂を下る。登らない。日常に降りていく。戦場は山の上ではなく、下山後にある。

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時をかける少女』と同じく、川が多い。川は通学路であり、母親を亡くす場所。水は生命の源であり、母の命を奪う。二面性を見事に描く。

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お風呂は癒しの場。閉ざされたプライベート空間。お風呂にいるときだけ鈴は誰にも見せたことのない癒しの顔をする。仮想空間とは違う異世界。日常にも癒しはある。

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仮想空間「U」の世界。YouTubeを思わせるネーミング。『バケモノの子』で蓮と九太のふたつの人生があったように、鈴とベルのふたつを描く。

歌声を失くした現実と、ディーバ(歌姫)として脚光を浴びるUの世界。現実の世界で輝けなくともフィクションの世界で生まれ変わる。

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本来、強さの象徴である竜をベルが守る構図にした妙。細田守逆張りで世界を構成する。

美女と野獣にオマージュを捧げた本作も、『君の名は。』と同じくジェンダーの入れ替わりを描いている。SOSを求めるのは女性ではなく、男性(竜)。溺れそうな子どもを助けるのも強さの象徴である父親ではなく、鈴の母。そして、幼馴染の忍が母親がわりとなる。

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Uの世界には正義の印籠を振りかざす自粛警察もいる。現実とSNSの世界の境界線がなくなっている現代を見事に反映している。

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そして、美女と野獣では野獣が王子に戻るが、本作で魔法が解けるのは鈴。ベルという仮の姿(野獣)から本来の鈴に戻る。魔法を解く忍が美女(イケメン)。

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ベルの歌が胸を打つのは、承認欲求のマスターベーションではなく、そこに魂があるから。本当のフォロワーとは何かを問いかける。

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顔にそばかすのあるベルと背中に痣のある竜。ともに母親がおらず、父親と軋轢がある。SNSには誹謗中傷やしがらみがある一方で共鳴がある。共感ではなく共鳴。だから歌がテーマ。「鈴」という名前も音に関係する。

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細田守は、本当につながることの意味を問う。だからラストシーンは、みんなで入道雲を見る。

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戦い、傷つき、スカーフェイス(傷のある顔)を抱えながら、それでも鈴は未来に推進していく。

『劇場版デジモンアドベンチャー』(1999)

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細田守という固有名詞が躍動する夜明け前。東映アニメーション時代の映画監督デビュー作。20分の短編に無名の新人は伝説を彩った。

主人公・太一とヒカリの両親は登場するが、顔をハッキリ描かず、ネバーランドの世界を創造。視点はキャラの目線ではなく、観客の目線。登場人物たちの物語ではなく、映画は観客のもの。だから我々は同じ時空を生きられる。

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生まれたての頃は猫にも負けるデジモンが、数分の間で大きく変貌する現象は、日々小さな革命を起こす子どもの成長とシンクロする。映画と子どもは理屈や整合性を超える。

繰り返し流されるラヴェルの『ボレロ』。日常が実は躍動的で冒険に満ちていることを奏でる。最後にヒカリから太一に託される笛と同じく、アニメーションは映像ではなく音の芸術。

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2体のデジモンは、どちらが善か悪か示唆しない。むしろ太一とヒカリと心を通わせるコロモンのほうが街を破壊しまくり、ヴィラン(悪役)であるかのように描く。

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細田守はラストで仕掛けをする。エンディング曲に使う和田光司の『Butter-Fly』は本来、オープニングの歌。しかし、あえてラストに指揮。ボレロからの『Butter-Fly』

終わりとは何かの始まり。永遠にループする。その後、細田守の代名詞となる「繰り返し」はデビュー作で確立していた。この主題歌は細田守自身の飛翔伝説。

熱情で捉え、冷静で届ける。細田守は地平線の眼差しを持っている。だから遠くを見られる。遠くに届けられる。

今作のあと『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』『ワンピース THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』経て、細田守は「細田守」という大航海に乗りだす。

細田守が守ってきた地平線の地図

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細田守は、全作において地平線の地図を描いてきた。動物が多く登場するが、人間も動物も同じ舞台で躍動させる。良い悪いの一元論では語らない。どちらが正解ではない。両方あって世界になる。そのせめぎあいが面白い。

細田守は、大衆に向けよう、ヒットさせようと思って作っていない。かといって自分だけが分かればいい一人相撲ではない。観客を信じている。

映画は、大衆に媚びるとバレる。本気で作ったほうが伝わる。観客も本気で作ったものを見たい。作り手がぶれない。自信を持って作る。

自己を伝える表現力を研ぎ澄ましつつ、伝わるものを作る。二者択一ではなく、両方目指せばいい。作品性も大衆性も、どちらかを諦める必要はない。

両方できる力を自分がつければいい。迷ったら両方やればいい。大衆のものでも、自分のためでもない、もっと大きなもののために作る。

細田守はこれからも細田守を守っていく。細田守という道を進んでいく。

ゴッホの庭:ひろしま美術館

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「広島」や「ヒロシマ」は眼にするが「ひろしま」は珍しい。修学旅行生や観光客が路面電車で目指す原爆ドームの近くに静かなる衝撃は存在する。

ひろしま美術館〉

ひとりの画家をコンセプトに造られた美術館は多い。だが、たった一枚のタブローのために構成された美術館は日本でここだけではないか。

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原爆ドームから歩いて10分ちょっと。1978年(昭和53)11月3日の開館。広島駅から路面電車に乗り「紙屋町東」の近く、広島県庁の目の前。この美術館の所蔵作であるオディロン・ルドン《ペガサス、岩上の馬》を模したペガサス像が意気揚々と迎えてくれる。

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ピカソの息子より贈られたマロニエ(栗)の木を抜ける。

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受付とミュージアムショップが一緒になった館。この一体は珍しい。

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お金を置くトレーがジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》

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入場料1500円を払ってショップを出ると、再び庭が迎えてくれる。すぐに館に入れない。最初に訪れる特別展の展示室はカフェと本館の中庭を抜けて反時計回りにぐるっと歩いて入る。絵画浴の前にたっぷり植物浴。美術館より庭の要素が強い。

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4月6日から6月2日まで『フィンランドのライフスタイル』展を開催。前日に新宿のSOMPO美術館で『北欧の神秘』を観てきたばかり。北欧駅伝に不思議な縁を感じる。

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フィンランドの家具、陶器、ガラス製品。脳がパスタに汚染されているので、どの皿が合いそうかの視点しかない。美術館というより吉祥寺のPARCOにいる感覚だった。

本館ホール

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ひろしま美術館の本館ホールは円型のドーム型。原爆ドームをイメージして設計されている。

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館内は4つの常設展示室に分かれた回廊。厳島神社がモチーフ。順路はない。どの部屋から入ってもいい。約78のタブローを好きなように輪舞する。

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本館の真ん中でアリスティド・マイヨール作《ヴィーナス》が鎮座。時間と空間を超えた悠久のやすらぎ。美の宮殿、美の神殿に入ったよう。

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オーギュスト・ロダン作《カレーの市民(第2試作)》が、これから美のコース料理を味わう食前酒。

第1展示室

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《勝利のヴィーナス》オーギュスト・ルノワール,1913年

Gallery 1に入るとルノワールの彫像。右を向くと最初に出迎えるのがムンク肖像画

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《マイスナー嬢の肖像》エドヴァルド・ムンク,1907年

色彩が明るい。鮮やかなオードブル(前菜)。この部屋の主役であるゴッホのタッチに似たムンクをトップバッターに持ってくるとは。ひろしま美術館のセンスが光る。このあとはスープ、ポワソン(魚料理)と続く。

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《要塞の眺め》アンリ・ルソー,1909年
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《ボア・ダムールの水車小屋の水浴》ポール・ゴーギャン,1886年

いよいよ四番バッター、メインディッシュ、肉料理。

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《ドービニーの庭》フィンセント・ファン・ゴッホ,1890年7月

ゴッホはどれほどホームランを打つのか。ついさっき完成したように錯覚した。それほどの瑞々しさ。目に優しい常識を打破する鮮烈な緑。芝や草木が生きもののように麗しく慟哭、威嚇してくる。絵は画家の動脈であるが、ゴッホはそれを教えてくれる。1890年7月、ゴッホが亡くなった直前に描かれたタブロー。アルルの時代より生命力と明るい色彩に満ちている。

原田マハの小説『〈あの絵〉のまえで』で登場し、事前に画集でも見ていたが良さがわからなかった。だが、とてつもない衝撃波。タブローは実物を見ないといけないが、その中でもゴッホは頂点。これは庭なのか、それとも緑の大河なのか。

あらゆるものが吹き飛ぶ。この絵の中には永遠がある。儚さがある。あまりにも力強い。あまりに脆い。美とは強さであり、強さはやさしさ。構図ではなく、ゴッホの筆と色彩が教えてくれる。永いやすらぎに満ちた、ひろしま美術館にこそ《ドービニーの庭》はふさわしい。広島銀行が購入したのではない。日本に憧れたゴッホのほうから海を渡ってきたのだ。

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《座る農夫》ポール・セザンヌ,1897年頃

第1展示室はデザートも豪華。ゴッホの左横にはセザンヌ。土のぬくもりがゴッホを讃えている。ゴッホの右隣をゴーギャンでサンドイッチしたのも、ひろしま美術館のやさしさ。農夫といえば作業着だが、セザンヌはイナせなジャケット、足を組む粋、そして高貴に手を組む農夫を描いた。

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《ジャ・ド・ブファンの木立》ポール・セザンヌ,1871年
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《村はずれ》ジョルジュ・スーラ,1883年
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《パリスの審判》オーギュスト・ルノワール,1913-14年頃
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《パリ、トリニテ広場》オーギュスト・ルノワール,1875年頃
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《セーヌ河の朝》クロード・モネ,1897年
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《ばら色のくつ(ベルト・モリゾ)》エドゥアール・マネ,1872年

他にもミレーやドラクロワクールベなど。第1展示室はデザートだけで窒息してしまう。

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タブローやギャラリーを見守るように彫像がある。第1展示室にはエドガー・ドガ《右手で右足をつかむ踊り子》も。

第2展示室

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第1展示室が調和なら、第2展示室はコントラストの間。色彩の対比、いや対決、いや決闘。対立概念によって物語を作る。

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《赤い室内の緑衣の女》アンリ・マティス,1947年

ラ・フランス》の赤と緑のあと、それを超える色彩の衝撃。絵画は背景が主役。それでこそ人物が輝く。主役が輝くには、舞台が大事。野球のWBCが河川敷で行われても味気ない。それにふさわしい舞台が必要。絵画ではそれが背景なのだ。マティスは思い切り華やかに描く。

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《酒場の二人の女》パブロ・ピカソ,1902年

ピカソの「青の時代」は一種のアルコールだ。その色彩と明暗に陶酔してしまう。真夜中のブルーであり青いワイン。

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単体でも凄いが、マティスの赤と並ぶことで、さらに青が際立つ。赤も際立つ。互いが競い、高める。この演出こそが美術館の仕事。マティスピカソも凄いが、その凄さは<ひろしま美術館>が引き出している。

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《仔羊を連れたポール、画家の息子、二歳》は作者がピカソと言われても信じられなかった。どれほどカメレオンなのか。ピカソは世界一の沼である。

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《女の半身像》パブロ・ピカソ,1970年

ザ・ピカソ。昔なら落書きと切り捨てていた。しかし、今は圧倒される。完全無欠のグラフィティ、人類最強の落書き。構図や色彩や意味など何もかもピカソの稲妻、爆弾によって吹き飛ぶ。タブローに向かい合うと何もかもがスパークする。これが亡くなる三年前、88歳前後の高齢出産なのだから信じられない。名声に溺れ、貯金の残高で生きる画家でない。青の時代や《ゲルニカ》や《アビニヨンの娘たち》ではなく、晩年にこそピカソの偉大さは宿る。

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《エプソム、ダービーの行進》ラウル・デュフィ,1930年

デュフィの緑はマティスの赤、ピカソの青や白の口直しのデザート。色彩の並べ方が、ひろしま美術館はウマい。ひろしま美術館=庭、すなわち緑。《ドービニーの庭》と同じく第2展示室にも緑は必要。デュフィが一役買って出た。

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ジョルジュ・ブラック《果物入れと果物》1935年

マティスピカソたちとの別れを惜しむように、ジョルジュ・ブラックが第2展示室を締める。黒いデザート。

第3展示室

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序破急。すでに満腹、満タン、満足なのに、ひろしま美術館は美の追撃。エンドロールを許さない。

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《男の肖像》アメデオ・モディリアーニ,1910年頃

「エコール・ド・パリ」という麗しい旋律が美術史にある。20世紀前半、パリのモンマルトルやモンパルナスに集まったボヘミアン画家たち。その絵描きたちが集まれば、元気玉のように過去や未来の天才絵師たちを圧倒する。

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モディリアーニの《頭部像》が目を光らせる中、未完の完結が待っている。

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《シャラント県アングレム、サン=ピエール大聖堂》モーリス・ユトリロ,1935年

衝撃度はゴッホピカソと遜色ない。いきなりユトリロをトップバッターに持ってくるのは反則と言わざるを得ない。なによりも巨大。111×130.5センチ。Gallery 3で最も大きい。青い空が迫る。大聖堂より大空。そこに〈白の時代〉を点在させることでスポットライトのように空も聖堂も輝く。雲とは青空を灯す照明。

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ルーマニアの女》モイズ・キスリング,1929年

眼だ。眼力だ。人間の眼より眼をしている。国籍など関係ない。眼が国籍だ。絵肌をなめるように観たいのに、その妖しさに負けて眼を逸らしてしまう。キスリングとルーマニアの女に完敗、そして乾杯。

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《河のほとり》マルク・シャガール,1973年

ここは天の川なのか、それとも三途の川なのか。ピカソの青の時代にも劣らない青にやられる。タイトルの《河のほとり》を観てワンツーパンチを喰らう。死臭すら漂う青の中に希望がある。希望を見出してしまう。希望を求めているからではない。希望のほうから逢いたがっている。3人は横を向いている。鑑賞者のことなど眼中にない。しかし、我々はしっかり観ている。射抜いている。シャガールに眼差しを奪われる。魂を盗まれる。いっそ、青に溶けてしまいたい。青の正義。

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《裸婦と猫》レオナール・フジタ,1923年

藤田嗣治なのかレオナール・フジタなのか。その答えがこの絵画にある。桃色の乳首と口唇。聖でも性でもない乳白色。裸婦には毛がない。猫が陰毛であり、土色の壁が白か黒かの二元論を打破する。絵画も人生もグラデーションでいい。白黒ハッキリさせる必要などない。乳首が投げキッスをしている。乳輪がウインクしている。裸婦よ永遠に。

第4展示室

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《水辺の裸婦》岡田 三郎助,1935年

第4展示室には近代の素晴らしい日本画が展示されているが、今回は語るのを控えたい。

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《ピアノの前の少女》南 薫造,1927年

西洋画家の猛者たちに圧倒され、夢遊病者のように彷徨ってしまったからだ。

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《農夫帰路》浅井 忠,1887年

日本画は次回に来るとき、ひろしま美術館2.0の宿題としたい。

美術館メシ

Café Jardin

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カフェ・ジョルダンは美術館を去ろうとする者を引き留める。入り口にあって出口にある。

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「ジャルダン」はフランス語で「庭」の意味。ゴッホ《ドービニーの庭》にちなんでいる。伝票入れの黒猫もドービニーの庭にいた猫。そんなのいたか?と第1展示室に戻ったが、後からゴッホが塗りつぶしたらしい。

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ねこカフェセット900円も黒猫ラテアート。ココアパウダーで肉球を描き、レモンクッキーにはカフェ・ジャルダンのロゴをプリント。ゴッホへの愛に溢れている。愛に溺れている。愛がこぼれている。

<あの絵>の前で

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広島といえば『仁義なき戦い』『県警対組織暴力』『広島カープ』の印象しかなかったが<ひろしま美術館>が地図に描かれた。今回、逢えなかったタブローも多い。だから西洋画の所蔵品を紹介する画集を買った。

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ひろしま美術館は、広島駅から歩いても30分ちょっと。広島は地下街が発達しており、駅から美術館の近くまでアンダーロードが伸びている。真夏や真冬でも快適。

美術館そのものがアートであり、そのタイトルは《ゴッホの庭》である。

いつか必ず、タブローたちに逢いに来る。画集を携えて。今度はゆっくりカフェ・ジャルダンでランチを食べながら。

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