アートの聖書

美術館巡りの日々を告白。美術より美術館のファン。

アーティゾン美術館〜空間と作品

東京駅

スポーツニッポンの校閲部でアルバイトしていた2014年から2016年までの3年間、東京駅は毎日の通勤駅だった。新宿から中央線で東京駅、京葉線に乗り換えて越中島へ。駅構内の移動が1キロ近くある巨大迷路。東京駅は人生の大事な中継点。

ミュージアムタワー京橋

ミュージアムタワー京橋

美術の都は上野だが、白金台の松岡美術館や新宿のSOMPO美術館、八王子の東京富士美術館など、東京都の美術力は底がしれない。東京駅から歩いて5分のアーティゾン美術館も異様なほどの美のブラックホール。本来であれば常設展示室を持たない美術館は大きなマイナス点になるが、圧倒的な企画力と展示力で他館を上回る。格が違うとはこのこと。

アーティゾン美術館

アーティゾン美術館

「ARTIZON」(アーティゾン)は、「ART」と「HORIZON」を組み合わせた造語。創設者はブリヂストンの創業者である石橋正二郎。1952年に東京・京橋に新築したブリヂストンビルの2階に開館。2020年1月にミュージアムタワー京橋にブリヂストン美術館からアーティゾン美術館に生まれ変わった。ビルは大型ガラスで囲まれ吹き抜けになっている。

アーティゾン美術館

エレベーターで上がると倉俣史朗によるオリジナルの家具。単なるインテリアではなく、こうした小物が生み出す静謐な空気が美術館に来る客を濾過するフィルターになっている。しかもアートに座れる。この貴重さは他の美術館にはない。チケットは事前予約。時間ごとに入場が区分けされているから鳥獣戯画展のような地獄の混雑がない。Web予約なら1200円。ロビーで買えば1500円。300円の差があるから、駆け込み客が少ない。見事な戦略。他の美術館も見習うべきマーケティング手法。

これだけ凄い企画展なのに空いているのが異様な空気。アーティゾン美術館の空間づくりの上手さはアート体験になくてはならないもの。絵画を観るときは空間も観ないといけない。

アーティゾン美術館

2024年7月27日から10月14日まで『空間と作品』を実施。訪ねたのは8月20日の火曜日。石橋財団コレクション144点を6・5・4階に展示。これで1200円は破格。WHO、Why、Where。3つの謎がトライアングル、凄まじいアートの満漢全席。近年の日本美術展の最高に位置する。

アーティゾン美術館

トップバッターは17世紀の円空《仏像》。アートの師匠は大好きらしいが、これはインパクト薄。仏像はフィギュアの走り。両方あまり興味がない。

アーティゾン美術館

続けて絵画へ。ここからが本番。

アーティゾン美術館

カミーユ・ピサロがリードオフマンを務めるが、これも弱い。しかし、ここから怒涛の名作ラッシュアワーが訪れる。

パブロ・ピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》 1923年

パブロ・ピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》 1923年

唐突にパブロ・ピカソ。線や輪郭がハッキリしており、良い作品ではない。40代前半「新古典主義の時代」の作品。パワーがない。しかし、このあとピカソがピカソである所以の作品が押し寄せる。拳闘のジャブとしての絵画。

円山応挙 《竹に狗子波に鴨図襖》

円山応挙 《竹に狗子波に鴨図襖》

円山応挙の襖絵のために和室を再現。動物が可愛い。江戸時代にこの筆致とは。

円山応挙 《竹に狗子波に鴨図襖》

しかも畳の上に座っていい。これぞ美術展のあるべき姿。

佐伯祐三《テラスの広告》1927年

佐伯祐三《テラスの広告》1927年

佐伯祐三はリビングに飾るスタイル。ソファに座って鑑賞する。

佐伯祐三《テラスの広告》1927年

パワーはすごいが、やや色彩がとっ散らかりすぎている。佐伯祐三の中ではイマイチ。

アリスティド・マイヨール《欲望》1905-08年

アリスティド・マイヨール《欲望》1905-08年

エスカレータで5階へ降りる。ロビーの奥にあるのがアリスティド・マイヨール《欲望》。見過ごす人も多い。なぜ、これほどの傑作をロビーの端っこに展示するのか。アーティゾン美術館からの挑発、アジテーション。本当の美術好き、美術館を隅々までしゃぶり尽くすアート・ラヴァーしか観られない。ひろしま美術館と同じく、マイヨールの彫像がある美術館は素晴らしい。女は右手で助けを求め、右膝でしっかりガードしている。しかし、このあと快楽に溺れるのは女のほう。女が男をエロスの沼に堕とす。その官能の夜明けを捉えている。

青木繁 《自画像》  1903年

青木繁 《自画像》 1903年

5階のトップバッターは青木繁。今まで何作か観てきて良いと思ったことがないが、これは西洋の自画像にも迫る。

ヴァシリー・カンディンスキー 《 二本の線 》1940年

ヴァシリー・カンディンスキー 《 二本の線 》1940年

なんたる背景の色。グリーン・クリーム色。柔らかい。一見、変哲もない視覚の中にアートとは何かが凝縮されている。絵画に音はないが、音楽はある。絵画から音は聴こえないが、歌は聴こえる。それこそがカンディンスキーのアート。

ジャクソン・ポロック 《ナンバー2、1951》  1951年

ジャクソン・ポロック 《ナンバー2、1951》 1951年

隣にジャクソン・ボロック。クリーム色から漆黒。いや、闇色。しかし気品がある。温もりがある。カカオ100%。Paint it Dark chocolate。これぞSweet Emotion。

パウル・クレー《島》1932年

パウル・クレー《島》 1932年

古代遺跡のような、血の海のような、インカの目覚めを感じるパウル・クレー。ここは無人島なのか、獄門島なのか。それても天国の楽園なのか。答えは絵でなく観るものの心の中にある。

パブロ・ピカソ《道化師 》1905年

パブロ・ピカソ《道化師 》1905年

初めて観るピカソのブロンズ像。絵画は歴代トップクラスなのに造形まで凄いとは。ミケランジェロ以上に神様から才能をもらったアーティスト。笑っていないのに笑っている。笑っているのに笑っていない。声なき声を発する。不気味さと温かさ。師匠はローマ皇帝のよう。タイトルを付けるなら《英雄の憂鬱》と言った。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》  1876年

ルノワール 《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》 1876年

フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》に迫れるのはルノワールしかない。肌には青い斑点があり、死相にも見える。不気味だ。しかし、ブルーは熱い色。斑点は少女の宣戦布告。足の組み方は『ペーパー・ムーン』のテイタム・オニールの虚空と煙草。少女は年齢より先の世界を見つめている。遥か先の時空を生きている。地面に足がつかない。この世を浮遊している。浮世している。

パブロ・ピカソ《女の顔 》1923年

パブロ・ピカソ《女の顔 》1923年

6階にあった凡庸な作品とは違う。白だけで勝負できる。それがピカソ。背景に青の時代、髪の毛は古典的。女の肌にエコルー・ド・パリを生き抜く年輪、時代が表れている。とてつもない生命力。

エドゥアール・マネ《自画像》1878–79年

エドゥアール・マネ《自画像》1878–79年

珍しいマネの自画像。ポーズを決めているから最初はそこに眼を奪われる。服のセンスもいい。しかし、自画像は背景を見なければいけない。ゴールドの炎、黄金のプライド。それは空中ではなく地面にある。マネの矜持は大地に根ざしている。

古賀春江《素朴な月夜》1929年

古賀春江《素朴な月夜》1929年

この展覧会で最大の出逢いが日本人画家たち。ひとりが古賀春江。女性とは思えないタッチの強さだと思ったら男性だった。初めて作品を観たと思ったら6月に三重県立美術館で観ていた。まったく印象に残らなかった。この絵は別格。テーブルの下にリンゴがある。地面から生まれてきたよう。下から上ではなく、上から下への重力によってリンゴが誕生するかのように。この手の絵に意味は要らない。好きなものを詰め込めばいい。この絵はそれぞれの物体が主役を争うフルーツバスケット。

国吉康雄《夢》1922年

国吉康雄《夢》1922年

もうひとりが国吉康雄。アンリ・ルソーの模倣かと思ったが、そうではない。明確な森ではなく気体のような森。緑の蜃気楼。そこに力強い植物とチャーミングな動物がいる。幻惑的、蠱惑的。どこか官能的でもある。

ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》 1904-06年頃

5階のトリを飾るのがセザンヌ。この1枚を観るために来た。セザンヌの数あるサント=ヴィクトワール山のなかで晩年の作品。ただ、最もパワーを感じない作品ではある。それを確かめられただけでも意味がある。師匠も「山の重力を感じない」と一刀両断。

アーティゾン美術館

アートの満漢全席、壮大な美も旅もいよいよフィナーレの4階。美の階段を下りていく。しかし、傑作に関しては最後のフロアが最も多い。ちょっと書ききれない。厳選させてもらう。

アンリ・マティス《縞ジャケット》1914年

アンリ・マティス《縞ジャケット》1914年

トップバッターはマティス。縞ジャケットと題しているが、すごいのは眼。ゴールドの瞳なのに、それが陰になっている。月の美しさは半分は太陽の力。人間も同じ。その人そのものが素晴らしいが他者がいて輝く。マティスは一枚でそれを表現している。

岸田劉生《麗子像》1922年

岸田劉生《麗子像》1922年

絵画は実物を観ないとダメだ。以前は良さがわからなかった。気持ち悪いと思っていた。しかし、実際の絵を見ると愛情に溢れている。色にぬくもりがある。人間の価値は顔ではないように、単なる美少女に描くことが愛情ではない。可愛い子を描いたら自然にこうなったのだ。

藤田嗣治《ドルドーニュの家》1940年

藤田嗣治《ドルドーニュの家》1940年

藤田嗣治の最高傑作と言われても否定しない。むしろ大いに推奨する。乳白色の極地。絵画が表せる白で、これほどの白はない。雪よりも白く淡い。そして温かい。藤田嗣治が白の頂点・モンブランに登頂した瞬間。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《少女》1887年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《少女》1887年

ルノワールもうひとつの少女。服と瞳をブルーに。髪だけが成熟している。晩年のルノワールの眼に少女はどんな存在だったのか。ルノワールと少女を考える上で重要な一枚。

クロード・モネ《睡蓮の池》 1907年

クロード・モネ《睡蓮の池》 1907年

初期の睡蓮の池。これは睡蓮ではなく池の絵。もっと言うなら水面の絵。もっともっと言うなら水面に反射する太陽の絵。これまで観た睡蓮の中でいちばんの傑作。

国吉康雄《横たわる女》1929年

国吉康雄《横たわる女》1929年

再びの国吉。下半身だけ丸出しはよくある構図ではある。しかし、陰毛が淫毛となり、ソファの紅蓮とあわさって最も官能の一枚となっている。日本の裸婦画の頂点にいる。

青木繁 《海の幸》 1904年

青木繁 《海の幸》 1904年

青木繁の凄さを最も雄弁に語る一枚。こちらを見つめている女性に尽きる。いや、これも男性なのか?どちらでもいい。なんという悪魔のチラ見。取り憑かれそうな表情。取り憑かれてもいい表情。取り憑かれたい表情。

ポール・セザンヌ《帽子をかぶった自画像》1890–94年頃

ポール・セザンヌ《帽子をかぶった自画像》1890–94年頃

自画像が多い画家のひとりであるセザンヌ。ここまでナルシストっぷりを発揮した自画像は珍しい。酔っ払いの眼であり、世の中を見下している。どうせ俺の絵なんかわからないだろう。ざまあみやがれという声が聞こえてくる。

パブロ・ピカソ 《ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙》1913年

パブロ・ピカソ 《ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙》1913年

この展覧会に存在する中で最大の傑作であり、藤田嗣治と並んで最も実物を観ないといけないアート。これをピカソの最高傑作と言われても首を横に振らない。油絵だけでなく砂や新聞紙を使っている。色や形ではなく質感の絵画。ゴッホの凸凹とは明らかに違う。もっと儚く繊細で力強い。ピカソがピカソである理由を見せつけてくれる。

美術館メシ

ミュージアムカフェ

アーティゾン美術館,ミュージアムカフェ

ミュージアムカフェ

美の満漢全席を味わったら腹が減った。ミュージアムカフェはランチタイムが終わり、ドリンクのみだった。

ミュージアムカフェ

柿の葉茶

柿の葉茶、650円。美味しかった。美術館で働くひとの中で、このミュージアムカフェでの仕事に憧れるひとも多い。その理由がわかった。次は11月。巨大な美の巨塔に屈するわけないはいかない。次はパスタも食べよう。美を骨の髄までしゃぶり尽くす。