
- 原題:Les Demoiselles d'Avignon
- 作者:パブロ・ピカソ
- 制作:1907年
- 寸法:243.9x233.7cm
- 技法:油彩,カンヴァス
- 所蔵:ニューヨーク近代美術館
ピカソがピカソになった記念碑。アフリカ美術の時代、そしてキュビズム(立体派)の黎明を告げる作品として、「現代絵画の出発点」と呼ばれる。かつて《ゲルニカ》も展示されていたニューヨーク近代美術館(MoMA)の所蔵。
絵のモデルは、スペインのバルセロナ、アビニヨー通りにある娼婦宿の5人。もしくは、ピカソの愛人で親友カサジェマスが自殺する原因となったジェルメーヌともいわれる。
キュビズムの盟友ジョルジュ・ブラックは《アヴィニョンの娘たち》を初めて観たとき、「ガソリンを1リットル飲んだあとに描いたのか?」と、その衝撃をピカソに伝えた。

《自画像》1907年、チェコ・ナロドニー・ギャラリー
「薔薇色の時代」のあと、ピカソはパリの民族学博物館を訪れ、アフリカやオセアニアの「仮面」や「彫像」に出逢う。

《三人の女性》1908年、エルミタージュ美術館
祈りや呪術が持つ造形の力、精神性、抽象性に衝撃を受け、アフリカの原始美術(彫刻)」に魅了される。1907年〜1909年頃までをキュビズムの時代と重ね合わせて「アフリカ原始美術の時代(African Period)」と呼ぶ。
絵画レビュー:人間の顔が壊れた夜、絵画は始まった

《アヴィニョンの娘たち》は「性」を描いた絵ではない。「生」の根源そのもの、人間の深層ににある「業(カルマ)」が映し出されている。
太古の昔、原始の女性たちは、狩りをする男たちと自らの身体を引き換えに、食べ物を得て生き延びていた。男を体内に受け入れ、食物を摂取し、子を宿す。それが、人類の円環。命の巡りの原初である。
画面に現れる五人の存在は、「人間の娘」ではなく、精霊、もののけ姫たち。現世の理を超えた存在である。
葡萄や桃、スイカのような果実は、禁断の果実。赤い肌はマタドールの赤いマント。だが、青と白の氷柱のような結界によって、これ以上は踏み込めない。トーテムポールのような5人は五柱であり、男たちの魂の止まり木。
「裸」とは、見せびらかすものでも、触れるためのものでもない。ひとりの男が独占することのできない、ひとつの聖域。無数の女性と浮き名を流したピカソは、女体の神秘を誰よりも知っていた。
ここは、ピカソが創造したエル・ドラド。ただし、黄金の街ではなく、五次元の世界。
この世に「美」も「醜」も存在しない。あるのは、「美しいと思う心」、「醜いと思う心」だけ。人間も神様も存在自体が狂気であり、凶器なのだ。
もうひとつの絵画レビュー:ガラスが割れる音のする絵

この前に立つと最初に聞こえるのは「ガシャーン」だ。遠近法というガラスが派手に割れる音。肌は面に、面は刃に、刃は視線になる。ピカソは空間をカミソリで刻み、絵の中の空気ごとこちらに投げつけてくる。
場面はバルセロナの売春宿。だから鑑賞者=客という設定だ。五人の女たちは“モデル”ではない。こちらを品定めするハンターである。中央の女は両腕を上げ、体を三角形に固めて進路をふさぐ。左の女はカーテンを引き、舞台を開く係。右側の二人は顔が仮面のように変形している。アフリカ彫刻の影が差し込み、欲望の場が儀式めいた緊張に変わる。
色は原始的にすら見えるピンクと青。だがそれは甘さではなく、冷たい切っ先だ。布も肌も壁も同じ“面”として扱われ、見る角度が一枚の中に同時多発する。横顔も正面も、表も裏も、時間のズレまでが同居している。ここでは「写す」より「解体して再構築する」ことが目的なのだ。
足もとには果物の皿。葡萄とメロンの静物は、ささやくように状況を説明する。
「あなたは入室したばかりの客」。ちいさな静物が、巨大な人体より鋭く物語を運ぶのが面白い。
この一枚以後、絵画は無傷ではいられなくなった。セザンヌが残した「形を面で考える」という遺言を、ピカソは爆薬に替えた。絵の歴史は“前・1907年”と“後・1907年”に割れ、キュビスムが動き出す。
美人画でも神話画でもない。これは、見るという行為そのものを分解して見せる事件現場だ。痛いのに、目が離せない。ガラスが割れた破片の向こうで、五人の視線はまだこちらを試している。
《アヴィニョンの娘たち》の習作たち
《アヴィニョンの娘たち》は、突発的な閃きだけで生まれた作品ではない。ピカソはこの巨大な問題作にたどり着くまでに、数多くの習作を重ねている。人物の配置、ポーズ、視線、顔の処理、空間のつぶし方。そうした要素を少しずつ試しながら、従来の絵画を壊し、新しい絵画のかたちを探っていったのである。
《女の胸像》

- 原題:Buste de femme (étude pour "Les Demoiselles d'Avignon")
- 制作:1907年
- 寸法:58.5 x 46.5 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:パリ国立ピカソ美術館(フランス)
パリ国立ピカソ美術館所蔵の作品で、《アヴィニョンの娘たち》の習作とされる1枚。キュビズム前夜の絵でありながら、まだ「バラ色の時代」の柔らかさも残している。
描写は大胆に削ぎ落とされ、白いカンヴァスの余白や荒い線が、完成と未完成のあわいをつくっている。大きく黒い目は、こちらを見ているようで別の場所を見ており、不安や諦めの影を感じさせる。顔や身体は最小限の線と色で記号のように処理されているのに、かえって強い存在感が立ち上がる。
淡いピンクや赤茶、黒を抑えた色彩の中で、頬の赤だけが人間の体温をかすかに呼び戻す。美人画ではなく、女性という存在が物語を与えられる前の、未完成で生々しい姿をとらえた作品である。
《女あるいは水夫の胸像》

- 英題:Bust of a woman or a Sailor (study for Les Demoiselles d'Avignon")
- 制作:1907年
- 寸法:53.5 x 36.2 cm
- 技法:油彩、厚紙
- 所蔵:パリ国立ピカソ美術館(フランス)
顔は刃物で削られたように、目、鼻、口、頬が鋭く組み替えられている。
大きな黒い目は感情を語らず、穴のようにこちらを吸い込む。正面を向いているようで微妙にずれ、明るい面と暗い面、熱と冷たさがひとつの顔の中でぶつかっている。
赤茶色の頬には血のような温度が残り、冷たい仮面の奥に人間の生々しさが見える。黒い輪郭線は顔を整えるのではなく、分断し、壊し、別のルールで組み直している。
ピカソは人間の顔を一度バラバラにしながら、「まだ顔に見えるギリギリ」を探っている。「人間の顔とは本当に単純なのか」と問いかける一枚である。
岡本太郎のピカソ《アヴィニョンの娘たち》

岡本太郎はパリのピカソ大回顧展で、《アヴィニョンの娘たち》を観た。そのときの衝撃を著書『今日の芸術』で書いている。
ピカソが大胆不敵にも、黒人原子芸術の手法をそのまま取り入れて作り、立体派運動の第一歩となった作品。画面の左右の形式が不均衡にずらしてあり、形態、色彩は猛烈な不協和音を発している。ものすごい迫力で、会場全体を威圧している。ズーンと全身に響いて、骨の髄まで喰いいってくるセンセーションは、なまめかしいまでに、いやったらしい。その激しさ、偉大において、最高傑作《ゲルニカ》と対比する作品であり、今世紀前半の絵画の最高傑作である。
岡本太郎『美の呪力』より

《アヴィニョンの娘たち》ほど、それまでのヨーロッパ美学と断絶した決然たる傑作はない。《アヴィニョンの娘たち》はまさしく爆発である。
原田マハのピカソ《アヴィニョンの娘たち》

原田マハはニューヨーク近代美術館(MoMA)に勤めていたとき、何度も《アヴィニョンの娘たち》を観ている。著書『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』でこう語る。
何がすごいって、画面に登場している五人の女たちが、まったく美しくないところだ。美しくないどころか、醜い化け物のようですらある。左側の女は、それでもまだ
「女」だとわかる。しかし、右へいくほど顔や姿の抽象化が進み、右端のふたりは宇宙人か怪物のようだ。
本作は、個性こそが新しい「美」の定義であると信じた画家の挑戦であり、俺こそが「絶対」なのだ、という画家の叫びが聞こえてくる。
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