アートの聖書

美術館巡りの日々を告白。美術より美術館のファン。

『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』、原田マハ〜美術館で、絵はいまを生きる

いちまいの絵、原田マハ〜おすすめアート本

  • 著者:原田マハ
  • 出版社:集英社新書
  • 発売日:2017年06月21日
  • ページ数:253p

あらすじ

原田マハが自身の人生に影響を与えた絵画、美術史の転換となった絵画26枚を紹介する。

  • アヴィニョンの娘たち(パブロ・ピカソ)
  • 秘儀荘「ディオニュソスの秘儀」(作者不明)
  • 聖フランチェスコの伝説(ジョット・ディ・ボンドーネ)
  • プリマヴェーラ春(サンドロ・ボッティチェリ)
  • 最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
  • セザンヌ夫人(ポール・セザンヌ)
  • バルコニー(エドゥアール・マネ)
  • 大壁画「睡蓮」(クロード・モネ)
  • ゲルニカ(パブロ・ピカソ)
  • エトワール(エドガー・ドガ)
  • 星月夜(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)
  • アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I(クリムト)
  • 真珠の耳飾りの少女(フェルメール)など
 

書評

原田マハは「6月のパリほど光溢れる街はない」という。「真冬のニューヨークの美術館は楽園」という。絵画は単体で存在しているのではなく、その絵画が存在する空間がある。絵画を見るには光がなければいけない。絵は、光の腕に抱かれている。

原田マハは名画を「何年も前に描かれても、ついさっき描きあげたように絵が呼吸する」という。新書よろしく文章の大部分は情報。しかし、それ以外の紀行文が圧倒的な力を持って胸を締めつける。個人の体験は世界にひとつだけのアート。

絵画とは何か?鑑賞とは何か?美術館とは何か?原田マハを読むたび、大きなクエスチョンマークがどんどん色褪せていく。絵画を視ることは、画家が生み出した光の腕に抱かれること。絵を見るとは、静かな旅に出ること。絵を観ることは、世界を受け取ることなのだ。

1枚目:パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》

アヴィニョンの娘たち,パブロ・ピカソ

ニューヨーク近代美術館(MoMA)に勤めていたとき、原田マハは何度も《アヴィニョンの娘たち》を観ている。

何がすごいって、画面に登場している五人の女たちが、まったく美しくないところだ。美しくないどころか、醜い化け物のようですらある。左側の女は、それでもまだ

「女」だとわかる。しかし、右へいくほど顔や姿の抽象化が進み、右端のふたりは宇宙人か怪物のようだ。

本作は、個性こそが新しい「美」の定義であると信じた画家の挑戦であり、俺こそが「絶対」なのだ、という画家の叫びが聞こえてくる。

2枚目:ジョット・ディ・ボンドーネ《聖フランチェスコの伝説》

ジョット・ディ・ボンドーネ《聖フランチェスコの伝説》

30代前半だったジョットが他の絵師たちと手がけた壁画のある「聖フランチェスコ聖堂」を、原田マハは3度も訪れた。

周囲に集まってくる小鳥たちに向かって語りかけるフランチェスコ、その優しげな表情。近くにいる修道士たちは、少しあきれたように見守っている。(中略)フランチェスコのあたたかな声まで聞こえてくるようだ。泣けてくるほど美しい場面を、ジョットは大聖堂の壁に永遠に刻んだ。じっと見つめるうちに、その奇跡に感謝したくなる。

4枚目:ボッティチェッリ《プリマヴェーラ(春)》

ボッティチェッリ《プリマヴェーラ(春)》

原田マハは、パリやロンドン、ベルリンなどの「芸術の都」の中でも、さらに歴史が古いフィレンツェが格別だという。

音符のごとく、庭園という名の五線譜の上にあって、とこしえの交響曲を奏でているのだ。色彩の透明感と輝きは、みつめるほどに深度を増していく。息をのむほど美しい絵画である。

私は、初めて訪れたフィレンツェで本作に対面したときの不思議な感覚を忘れることができない。吸い込まれるような大画面で、絵の中から春風が吹きくるのを感じたのだ。
そのとき、周囲は大勢の観光客でにぎわっていたのだが、ふっと雑音が消え、神々と私だけがその場にいた。私は画面にほんのりと照らされた。ルネサンスの輝きが、五百年の時を超えて、私を照らしていた。

ただ、ほんとうに、美しかった。どんな言葉も奪い去られてしまう。ただ、美しさに心地よく打ちのめされるのみなのだ。いかなる感想も、評論も、意味を成さない。

ただ、「プリマヴェーラ(春)」がある限り、フィレンツェは何度でも訪れたい目的地なのである。

6枚目:ポール・セザンヌ《セザンヌ夫人》

ポール・セザンヌ《セザンヌ夫人》

セザンヌは妻オルタンス・フィケの肖像画を24枚も描いた。

原田マハは《セザンヌ夫人》には、セザンヌの画家としての神秘と本質が隠されているという。この絵をロンドンのテート・ギャラリーで見て、複製画を買った。

2015年には、ニューヨークのメトロポリタン美術館で《セザンヌ夫人》ばかりを集めた展覧会があったほど、アメリカ人にとって、《セザンヌ夫人》は特別な絵。

原田マハは言う。

画家が自分自身のありったけの思いを、「他人を描いた」肖像画に重ね合わせることは、実はセザンヌの登場まではほとんどなかったのではないか。《セザンヌ夫人》は画家のたゆまぬ努力と研鑽が見事に結実した一枚である。そしてそこには、妻・オルタンスへの深い愛情が潜んでいることも伝わってくる。

なんと純朴で、なんと飾らない、なんとしみじみと心に沁み入る美しさであることか。そこには、何も持たぬことの潔さ、すがすがしさが表れている。人生における本当の豊かさとはいったいどういうことなのか、画家から私たち観る側への静かな問いかけがある。この一枚をみつめれば、セザンヌがいかに妻の本質に深いまなざしを注ぎ、それをあぶり出すようにして表現していたかがわかる。

確かに、彼女はいかにもつまらなそうな顔をしている。言いたいことはいっぱいある、けれどいまは言わずにおきましょう。ポーズをとるのはいや。だけど、ポール・セザンヌにみつめてもらえないのはもっといやなの--との彼女の心の声が聞こえてきそうである。だからこそ、この肖像画は素晴らしいのである。

9枚目:原田マハが観る

ドガ《エトワール》

ドガが求めていたのは、「瞬間」であった。たったいま、目の前で起こっていること、自分を見ている現実を、いかにみずみずしく、そのまま絵の中に封じ込めるか。かつ、いかにして「瞬間」に「永続性」を与えるか。その点にこそ、ドガの強い関心と執着があったのだ。

この絵は、可憐なバレリーナを描いてバレエを礼賛する作品ではない。貧しい家庭を助けようと必死になっている少女の寄るべなさと、金の力で彼女を奪い去る男のえげつなさを描いた、透徹したリアリズム絵画なのである。

10枚目:原田マハが観るゴッホ《星月夜》

ゴッホ《星月夜》

原田マハは、「星に照らし出された明るい空が、明日への希望に満ちている」と表現する。

11枚目:原田マハが観るクリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》

11枚目:原田マハが観るクリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》

クリムトの作風の粋が結集した宝石箱のような一作。夢を見るようにうっとりとろけるアデーレの顔としなやかな腕は、白い肌の下で脈打つ血すらも感じさせるリアルさ。その体にまとったドレスは、明らかに画家の想像で作り上げた"妄想の一着"である。

黄金の装飾に覆われたそれには、豪華さ、重厚さ、近寄りがたさがあり、この世のものとは思えぬ幽玄さをたたえ、どこかしら日本の能装束を思わせる。背景とコスチュームは境界線なく融合して、アデーレを現実の世界と幻想の世界、ふたつの世界のきわに佇ませている。

12枚目:原田マハが観るフェルメール《真珠の耳飾りの少女》

マウリッツハイス美術館の展示

「潤んだ瞳と、うっすら開けた唇には、どうか...と哀願する気配がある。どうか、見つめないで。どうか、行かないで。どうか、私を忘れないで。次の瞬間、どこか遠くへ行ってしまう誰かに、声なき声で訴えている。そんな一途な思い、切なさがあった」と語る。

14枚目:原田マハが観るゴヤ《マドリッド、1808年5月3日》

《1808年5月3日、マドリッド》ゴヤ

原田マハはスペインのプラド美術館を何度も訪れ、ゴヤの絵画を観ている。

「世紀の一瞬」を切り取って描かれた「報道写真」のごとき絵画である。この惨劇を看過するわけにはいかない。描き留めければ、戦争の悲惨さ、人間の愚かしさを後世に遺さなければ。そんな思いがよぎったに違いない。

音なき画面からは、銃声とともに、人々の叫び声が聞こえてくる。絵を見つめていると、ゴヤには確かに聞こえていたのだ、とわかってくる。名もなき人々の声なき声が。

15枚目:原田マハが観るマティス《ダンス》

アンリ・マティス《ダンス(Ⅱ)》

原田マハは最高気温マイナス5度の真冬のサンクトペテルブルクを訪問し、マティス《ダンス》をエルミタージュ美術館で観た。それでも暖冬だという。

画中で、地中海のごとく真っ青な背景に浮かび上がる赤い裸身の人物たち。輪になって踊る姿はどこまでもシンプルで、力強い赤茶の線で縁取られている。

緑が燃え盛る大地を踏みしめ、ダンスに興じる人々の輪は、活力に溢れ、動きに満ちている。それは命の踊りであり、世界の輪であり、地球の自転を象徴するかのようなエネルギーを感じさせる。

17枚目:原田マハが観るピカソ《ゲルニカ》

17枚目:原田マハが観るピカソ《ゲルニカ》

モノクロームの画面で、兵器も爆撃も様子も描かれておらず、流血も死屍累々の惨状もない。それなのに、画面の隅々までが爆薬の臭いで覆われ、名もなき人々の叫び声が聞こえてくる。空爆という近代戦争がもたらした大量殺人行為を痛烈に批判した本作は、パリ万博で大きな物議を醸した。

知人の小説家が読む『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』─ 絵を観るとは何か?

原田マハ『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』を読んだ。読んだが、これはただの名画紹介本ではない。ただの、なんて言葉を使ってしまったが、これがまた、そういう枠に収まる本ではないのだから仕方がない。

まず、取り上げられている絵がすごい。ピカソの『アヴィニヨンの娘たち』、ゴッホの『星月夜』、モネの『睡蓮』─ いちいち名作すぎる。いや、ただの名作じゃない。この26枚、どれもが美術史にとって決定的なターニングポイントとなった絵だ。歴史を変えた絵。それを著者は語る。いや、「語る」というより、対話する。絵と向き合い、絵の中に入り込み、そして自分の人生と重ね合わせていく。

絵とは何か? それは美術館の壁にかけられた静かな存在ではない。絵は語り、叫び、人生に何かを突きつけてくる。本書の中で語られる絵は、そういう力を持っている。例えば『プリマヴェーラ』。ただの春の祝福か? いやいや、違う。そこに描かれたものは神話であり、幻想であり、あるいは人生の比喩でもある。

さらに興味深いのは、絵画に対する「視線」のあり方だ。名画を観るとはどういうことか? ただ眺めるだけではない。目を凝らし、そこに秘められた時間の層を読み解く。過去の画家たちの筆の跡をたどりながら、時代を超えた対話をする。それこそが「観る」という行為なのだと、本書は訴えかけてくる。

この本を読み終えたとき、ふと考えた。自分にとっての「いちまいの絵」は何だろう、と。誰しもが、人生に影響を与えた絵を持っているはずだ。その絵に再び会うために、美術館へ行きたくなる。いや、行かざるを得ない。

そういうわけで、この本はただの名画解説ではない。むしろ、絵と人生を結びつける指南書のようなものだ。読めば、次に美術館へ足を運ぶとき、世界の見え方が少し変わっているだろう。

 

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