アートの聖書

絵画、映画、ときどき音楽

EUREKAユリイカ〜21世紀ナンバーワン日本映画

EUREKA ユリイカ

21世紀以降、いまだ『EUREKA』を超える実写の日本映画は現れていない。

映画監督の仕事は役者の演出でも、映像や音楽をこねくり回すことでもない。世界に眼差しを提供すること。

青山真治は白黒でもセピア色でもなく、温もりのある土色のフィルタを観客に提示した。沢井や梢の孤独を温めた。

車窓からの景色を見せ、観客をバスに乗せて彼らを一緒に見守らせた。

沢井の咳が最大の音楽。声にならない声、SOS、やるせなさ、観客へのノック。

ラストで世界がカラーに変わるとき、彼らは何かを発見した。それは青山真治も分からない。ただ発見したことだけが分かっている。キャラクターは監督の私物ではない。彼らには彼らの人生があり、彼らにしかわからない。この距離感こそが映画。

映画は観客に答えではなく「考えること」を提示するもの。

現代の濱口竜介のように、青山真治より才能のある監督はいるが、才能だけではこの作品は作れない。

あと何年生きられるかわからないが、残りの人生でEUREKAを超える邦画に出逢えるだろうか。

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映画『めためた』:不自由の翼を広げて

映画めためた

映画は暗闇の世界で観るプラネタリウム。テレビではキラキラ光るキャラクターも映画では途端に味気なくなる。ちょっと救いようのない人物たちにこそシネマの神様は微笑む。スクリーンは金幕ではなく銀幕。映画は金閣寺ではなく銀閣寺。映画界にはメッキの金閣もあるが、本物の銀閣が『めためた』である。

3組の男女の群像劇。主人公は二股生活を送るスランプに陥った作家。婚約者の彼氏を連れて帰省すると母親が若い男と結婚するサプライズが待っていた女。妊活に励むが旦那に子種がないと発覚する夫婦。

この映画は登場人物のバックボーンは描かず、風景のみがプロフィールとなる。目の前に起こる出来事にどんなリアクションをとるか、その「今」だけを紡いでいる。

セリフやストーリーを一部しか用意せず、あとは役者たちに任せ、現場で事故的に生まれるものをカメラに収める手法。ドキュメントなのかフィクションなのか不思議なグラデーションの質感が漂う。

本当にいい映画には音や色や形だけではなく、いい湿度がある。『めためた』は光と湿度の映画であり、沈黙が美しい映画。撮影監督の近藤康太郎は、匂い・吐息・沈黙・光・温度・湿度のすべてを逃さず捉えた。これが長編監督デビューとなる鈴木宏侑、主演・脚本の新井秀幸が「こんな映画はもう二度とつくれない(と思います)」と口を揃えるように、再び令和の奇跡が生まれる可能性は低い。

偶然かもしれない、一発屋かもしれない。
だけど線香花火も打ち上げ花火も一回しか見れないから尊い。ラッキーパンチであっても日本映画にとって『めためた』が近年最高の宝石であることは変わらない。

ゴッホが時代の先を生きすぎて現世に理解されなかったように、『めためた』も何年間の熟成を経て爆発する。この映画には北野武ジム・ジャームッシュヴィム・ヴェンダースなどの色素と元素がある。神様に祝福された映画の先輩たちが『めためた』の背中を押している。

映画は寄るべなき者たちのもの。絶望が待っていると分かっていても踊り続ける。その背中を押してくれる。希望があるからではなく、希望を求めて人は生きる。出逢うことのない3つの物語はミステリー・トレインで繋がっている。そうやって世界は愛し合う。

『めためた』は曇り空、曇りガラスを肯定してくれた。人生はロングショットで見たとき、晴れや雨の日より曇りが多い。どうすればいいのかわからない、なにを発すればいいのか言葉が出てこない。悶々としながら、誰しもそれぞれの曇り空、曇りガラスを抱えている。

それを乗り越えるでも踏ん張るでもなく、時間と一緒に旅行をしながら、ぷかぷか浮かんでいく。晴れの日が来なくても曇ったままでも何とかなる。

自由にならなくていい
自由を目指さなくていい
自由の翼を広げればいい

白く翔べ、白く堕ちろ。ベートーヴェンの『悲愴』はきっと、曇り空を肯定するためにこの世に産み落とされた。あの曲はダンスミュージック。『めためた』は心の体重が軽くしれくれた。

『めためた』に登場する人物たちも、『めためた』という映画も、これからも世界という大海原を流れていく。たゆたえども沈まず。

ドラゴンボール 魔神城のねむり姫

ドラゴンボール 魔神城のねむり姫

 

人生で初めて映画館で観たのが『魔神城のねむり姫』である。記憶はないが思い出はある。橿原だったのか奈良だったのか、それとも地元の桜井だったのか。事実は迷子。記憶から家出した。でも初めて観た映画は『魔神城のねむり姫』。そうあって欲しい。それだけが真実だ。

スケベなジジイがスケベな悪魔から美女を強奪する。自分の手をくださない。ガキたちを派遣する。パチンコ玉の頭をした少年はハゲジジイにエロ本の賄賂を使う。汚いものには姑息で対抗する。とんでもない脚本。

これが少年マンガ、少年アニメ。これから汚い大人たちの社会に出ていくガキどもに一歩先の世界を覗かせる。映画は覗き穴である。

夕陽に染まる悪魔の手、魔神城の怪獣たちのラッパ、中世ヨーロッパのようなBGMの死の音楽。怖かった。でも観てしまう。何度も覗いてしまう。

太陽を吹き飛ばし、闇の世界を創造しようとする悪魔ルシフェルにブルマが叫ぶ。

海水浴いけないじゃない!

なんという名台詞。ブルマはO型に違いないが、これほど女という生きものを表した台詞はない。最後のランチさんがぶっ放すマシンガンはアメリカン・ニューシネマの蜂の巣。クリリンや悟空の頭にもぶち込む。女は悪魔より強し。銃弾はモールス信号であり、少年たちへのメッセージ。

もっとワイルドに、もっとたくましく生きてごらん。

これを4歳で観た。人生が変わった。幼稚園で教えてくれないことをいっぱい見せてくれた。ドラゴンボールはもうひとりの育ての親。

ヴィム・ヴェンダースを放浪する

ヴィム・ヴェンダースを放浪する

私は夢の中でも映画を撮る。カメラさえあれば。

ヴィム・ヴェンダースに触れたのは2024年。映画ファンとして、あまりにも遅すぎる。しかし、映画はタイミング。作品は変わらないのに、いつ観るかによって印象は大きく変わる。昭和でも平成でも2023年の終わりでもなく、令和6年1月にヴィム・ヴェンダースを知ったことは、幸運だった。

ヴェンダースの映画を観たあとは苦い珈琲が飲みたくなる。珈琲が空白を浄化してくれる。17本の作品を放浪した。そのうち10本を振り返る。

都会のアリス(1973年)

アメリカに旅行記の執筆で来ていたドイツ人ジャーナリストと、母親に見捨てられた少女との交流。物語がありそうで無い。フィクションなのに、この2人の結末をドキドキしながら見てしまう。セリフが少ない。説明的なセリフがない。絵画と音楽だけで映画を作っているような。ヴィム・ヴェンダースは言葉を使わなくても言魂は生まれることを証明した。

主人公のフィリップ・ヴィンターは物書きなのに1文字も旅行記を書かず、ポラロイドカメラで写真ばかり撮る。写真を撮ることは自分を撮ること。見えない自分を撮る。自分を写さずに自分を撮る。アメリカを旅することで、アリスと旅をすることでフィリップは自分を探している。

本作がモノクロなのは、自分という色、母という神の色を失ったフィリップとアリスの眼に映る世界。親子でも友情でもなく、叔父と姪の関係性。女は少女ではなく最初から女。男が子守をしているようで、アリスによって旅が生まれている。女がディレクションしている。女に翻弄されエデンの東へ向かうアダムとイヴ。旅は未完だからこそ旅である。

まわり道(1975年)

旅での不自然な出逢いを自然に撮るヴェンダースという傾き者。書けない作家、売れない女優、女芸人、元ナチス党員。不自然すぎる一座が形成され、一本道を歩く。ロードムービーのようで会話劇。

主人公のモノローグはドキュメントというより日記のように風景や会話や時間を綴る。日記も文学になる。紀貫之など平安時代の作家が実証したことをヴィム・ヴェンダースは1000年の時を超えて甦らせた。

お世辞にも魅力がない役者陣のなかで唯一の花が13歳のナスターシャ・キンスキー。思い切って口のきけないミニョンを主人公にすれば歴史的映画になったかもしれない。

さすらい(1976年)

ヴィム・ヴェンダース最高傑作。ジュディマリOver Drive』のようなワンピースのリュディガー・フォーグラーが愛おしい。

映像はモノクロだが、ふたりの沈黙に色がある。温もりがある。乾いた広野のなかに湿度がある。ヴェンダースは沈黙という旅を見せてくれる。旅と映画は語彙力を失うほうがいい。キャンピングカーは男たちの人生を映す銀幕。この時代はタバコ税もレジ袋税もなかった。旅人を縛るものが少なかった。自由というプレッシャーと闘う必要がなかった。

車を喪失した男、車に乗り続ける男。四輪のキャンピングカーから二輪のサイドカーへ。ふたりの心の距離が詰まっていく。そして四輪の車に戻ったとき一枚のレコードをセッションする。人生は映画のフィルムであり車輪であり、車のハンドル。やがて、ふたりは離れ一輪へ。それでも男たちは人生の映写機を回し続ける。

666号室(1982年)

読む映画。読み解く映画。咀嚼する映画。幾人もの映画人が登場したが、響いたのはゴダールのみ。台詞を発するのではなくナレーション。耳ではなく観る者の心に直接ささやくように。背後にはクレーコートのテニスの映像。映画とテレビ。固定カメラ。カメラは動かない。人物が動く。風景が動く。言葉が動く。芸術の未来を憂うことは不毛だ。映画の天敵扱いを受けるテレビよりも今は動画配信が主流。時代は変わる。映画とはなにかを見つめ、素晴らしい作品を遺せばいい。AIが人間の仕事を奪うか議論される現代も人類は進化していない。

パリ、テキサス1984年)

『さすらい』を継ぐさすらい。放浪の映画作家ヴィム・ヴェンダースロードムービーの故郷に帰る。トラヴィスが道を歩く。カメラは横から並走する。何度も。トラヴィスの歩幅、歩調に寄り添う。それだけでロードムービーになる。

赤は夜明けの色。不眠症という荒野。ミラーに映るトラヴィス、車窓の風景、マジックミラー越し、電話越し、テープレコーダー越し。こころのふれあい。男は空白を取り戻し、再び家族を壊して空白を獲得する。荒野は荒野のまま。それでも荒野に夜明けは訪れる。

東京画(1985年)

小津安二郎の『東京物語』の「オープニング・クレジット」から始まるオープニング。映画の中で最も退屈で不要だと思っているオープニング・クレジットにヴェンダースが小津への想いを語る。ヴェンダースの眼を通して東京物語のオープニング・クレジットを見ると、不思議な味わいがある。小津を追い求めるヴェンダースにとって、1983年の東京は「傷ついた風景」ではあるが「失われた風景」ではない。心の中に小津の風景はある。他のドキュメント映画よりドキュメント性が強いのに、フィクションの浪漫を失わない。ヴェンダースの心が放熱しているからだ。笠智衆へのインタビューでは字幕を入れず、ヴェンダース自身が笠智衆の言魂を咀嚼して自分の声で翻訳。車窓の風景が多い。そこは銀幕。車窓には人生が映写している。パチンコは誰とも喋らないし、誰かと対戦もしない。ただ釘と玉の静と動を見つめる。映画に最も近いのはパチンコなのかもしれない。ヴェンダースが撮る東京は、邦画やテレビドラマよりも東京がある。外国人が撮る「TOKYO」ではなく「東京」。地面からカメラが生えているかのように東京の風土を捉える。映画は世界旅行のパスポートであり、同時に国境を破壊する<宇宙の消しゴム>

ベルリン・天使の詩(1987年)

PCエンジン(ゲーム機器)で『天使の詩2』という名作RPGがあった。フィールドに出たときの荒野のような音楽がたまらなく冒険心を掻き立てた。孤独に寄り添う天使が孤独の羽に包まれる。恋は人を孤独にする。天使ダミエルに色が宿ったとき、初めて人生が彩られた。人が当たり前に獲得しているものはギフト。最初に人がプレゼントされるのは世界という贈り物。

都市とモードのビデオノート(1989年)

人間が服を着ているようで、服が人間を着ている。我々が映画を観ているようで、映画が我々を観ている。日本人ではなく、東京人間、都会びとを生きる山本耀司。ビデオカメラが捉えるザラザラの映像、ザラザラの声が手触りを感じさせる。服飾人を撮っているようでヴェンダースが映画と対話する。映画とは何かを見つける探偵物語。撮影監督のロビー・ミュラーはファインダー越しの山本耀司を映す。何度も。カメラは山本耀司と対話するヴェンダースの分身。撮影している映像を見せることで、不思議なほどに映像がフィクション性を帯びる。映像の中に引きずり込まれる。ヴェンダース、この男ハーメルンの笛吹き男につき。ロビー・ミュラーがカメラを向けると東京の、新宿の硬い空気が柔らかくなる。"時間のデザイナー"ヴィム・ヴェンダース。リアルとフィクションの窓際に立つヴィム・ヴェンダース。そして我々もまた、終わりのない役を演じ続ける映画俳優なのである。

夢の涯てまでも(1991年)

探偵と美女。映画を見ているより推理小説を読んでいる。ロードムービーではない。必要に応じて「移動」をしているだけ。旅とは風景を捨てること。映画は理解しないほうがいい、錯覚したほうがいい。美女の魔性が男の視覚を狂わす。ソルヴェーグ・ドマルタン。愛がbroken ladder(壊れた梯子)なら、映画は天国への階段。「未来はフィクション。想像力で作る」。はじめに言葉ありき。最後に映像が残った。

PERFECT DAYS(2024年)

ヴェンダースに邂逅した作品。令和の最高傑作。兎にも角にもほっこりする。姪と並んで木漏れ日を見上げるショットが極致。人生は祝福であり呪い。朝日と夕陽は同じ色。平山も木漏れ日のようにゆらゆら揺れている。

裸電球、煎餅布団、カセットテープ。クラシカルでもノスタルジアでもなくフレッシュネス。自分と繋がるため、自分を更新するためのSNS。ひとりだけのSNS。過去を詮索されるのを嫌がるが、今を肯定してくれる人間にやさしく微笑む。平山の心は常に世界に開いている。

平山はルーティンではなく毎日小さな旅をくり返す。同じ風景、同じ時間は存在しない。平山は自分だけのロードムービーを作っている。泣いて笑って、平山はあたらしい荒野を歩いていく。

ヴィム・ヴェンダースTop5

1位:さすらい(1976年)
2位:PERFECT DAYS(2024年)
3位:東京画(1985年)
4位:都市とモードのビデオノート(1989年)
5位:パリ、テキサス1984年)

ドイツ、日本、アメリカ。ヴェンダースの映画は国境を破壊する<宇宙の消しゴム>である。

PERFECT DAYS

三度目のPERFECT DAYS「自分探しの旅」という使い古された言葉があるが、それは遠くに行かなくてもいい。良い映画もまた自分を正直にさせ、自分を発見する。作品と向き合っているようで、その実は自己と向き合っている。

『PERFECT DAYS』は光と色と音が主演の映画であり、闇と沈黙と無色が主役を食う映画である。

役所広司が毎晩通う居酒屋は巨人戦の中継を流す。丸佳浩のヒットのあと中田翔のホームランが出る。野球は労働者の平日を包み込む不思議な力がある。役所広司が演じる平山の眼差しにも同じような包容力があった。

会社がある、仕事がある、居場所がある。渋谷区のトイレ清掃員の平山は毎朝大きなあくびをしながら空とスカイツリーを笑顔で見上げ職場へ向かう。新宿の摩天楼を自転車で抜ける去年までの自分だった。

小さなトイレ、押上のアパート、ダイハツ軽ワゴン車。それらは個室、千利休の茶室のような空間。平山には自分だけの本、自分だけの音楽、自分だけの小さな宇宙がある。他者によって人生の歩調や歯車が狂うこともあるが、人生の脚本を自分で書き上げる。

ヴィム•ヴェンダースはトイレの汚物を見せない。それをすると平山の仕事が立派だと誇張してしまう。ヴェンダースは平山の仕事を肯定も否定もしない。ただ見守る。それが映画監督の仕事。ヴェンダースは平山と並走し寄り添う。

僕は昨年に会社員を辞め、売れないフリーランスの物書きをしている。毎朝、目が覚めると自分なんかこの世に要らないんじゃないかと思うことがある。

会社員だった去年までは職場に行けばしゃべる人がいた。一緒にご飯を食べる人がいた。コワーキングスペースに通う今は黙々とパソコンに文章を打つ。そうか、仕事が好きだったのではなく仕事場が好きだったのだ。小さな旅が好きだったのだ。

平山もトイレを巡ることで毎日小さな旅を繰り返している。小さな宇宙を生きている。自分だけのロードムービーを作っている。ルーティンに見えて小さな冒険を繰り返している。木漏れ日のようにゆらゆら揺れている。

他人の眼を気にしない平山やホームレスの生き方は人間の強さであり弱さでもある。時代から逆流しながら世の中と調和している。この映画の人物とは年齢も大きく離れているが、心の握手ができた。これから平山は泣いて笑って、あたらしい荒野を歩いていく。

上映中、味のなくなったガムを最後まで噛み続けた。もう止めようか時折考えながら、それでも噛み続けると新しい味が生まれてきた。そんな映画だった。

三度目のPERFECT DAYS

三度目のPERFECT DAYS

スポーツニッポン校閲を辞め、登山家のエヴェレスト遠征に同行して帰国したあと、まだ文章でお金をもらうことに自信が持てなかった。職を探すなかで応募したのがトイレ清掃のアルバイト。34歳。

ネットで応募すると採用担当者から電話。「高齢の方がやる仕事なので申し訳ありません」。わざわざ電話をくれて丁寧な断りだったが、必要とされていないことに落ち込んだ。そのあと会社員ライターになり、物書きとして独立した今もトイレ清掃員はまぶしい仕事だ。

映画『PERFECT DAYS』を3回観た。どれもTOHOシネマズ新宿で朝9時の回。平山の通う浅草の福ちゃんの味が毎日違うように、一つとして同じ鑑賞はない。流れる映像は同じでも体験は変わる。

この映画に答えはない。そもそも映画に正解はない。むしろ誤解することが正解だ。友人は平山と妹の関係を「あれは妹ではなく元妻だ」と言い切る。それでいいのだ。設定を捻じ曲げるくらいの気概がなければ監督や脚本家を超えられない。映画を自分のものにできない。

過去に幼い子どもを喪失した平山は、毎朝アパートで小さな草木に水をやる。過去にできなかった育児。平山は身の回りに物を置かないかわりに未練を背負う。毎朝ご近所さんが掃くホウキ、歯磨き、髭剃り、トイレ清掃、コインランドリーの洗濯、銭湯で身体を洗う。この映画はとにかく清めのシーンが多い。日々の中で人生を浄化する、漂白する、純化する。

青い作業服をまとい、青い車で仕事場に向かう平山は「蒼の時代」を生きている。青春より少しディープでほろ苦い。青よりも蒼い。タカシ曰く変人度で10のうち9。残りの1で平山は世界と接着する。

毎朝、甘いBOSSのカフェオレを飲む。ブラックコーヒーではない。そのマイルドに平山がタカシのようなダメ人間を受け入れるマイルドさが表れている。それを映画は説明しない。だからキャッチボールはできなくても心の握手ができる。

10分の銭湯、お釣りが出ないようにお金を用意周到、電話は要件を伝えてさっさと切る。せっかちな性格なのに、わざわざ古いカメラで写真を現像する。すぐに答えが出ないものを愛する。人生に答えなどいらない。だから曲の途中でカセットテープを止めるし野球中継も途中で切り上げる。多くを語らない。アヤが涙を流しても何かを諭すわけではなく、ただ話を聞いてあげる。うなずいてあげる。だからアヤも言葉ではなくキスで御礼を表現する。言葉を交わさなくとも気持ちは通じる。そんなとき、平山は笑顔になる。

昼にサンドイッチを食べるのは、木漏れ日の柔らかい光と無音を壊したくないからだ。隣で死んだ眼をして同じサンドイッチを食べるOL。互いに話しかけるわけでもない。代わりに○✖️ゲームで触れ合う。誰が対戦相手か互いに気づかないが、見えない交流を重ねている。

平山の日常は清流のように、川の流れを見つめるように見ているこっちが心穏やかになる。同じ瞬間はない。常に流れている。『PERFECT DAYS』のパーフェクトは「完璧」や「完全」ではなく「無欠」

光も影も、音も沈黙も、過去も未来も、どれも人生の中で欠けているものはない。最初から人生はパーフェクトなのだ。それを人間は生きる中で削り落とす。この映画は朝日の映像で始まり日の出で終わった。平山が見る夢の映像はモノクロ、光がない。たとえどんな影が訪れようと、日はまた昇る。遠慮がちに妹をやさしく抱擁したように、悲しみに暮れるイヴのママを抱きしめに行く。それは他でもない、平山の青春を救う旅立ちである。

ルパン三世 カリオストロの城

カリオストロの城

カリオストロの城』の本編は冒頭の4分のみ。炎のたからものが終わるオープニングまで。冒険の舞台であるカリオストロ公国に向かう旅情こそが作品の心臓であり、ロードムービー。目的地に到着するまでが浪漫。

「旅とは風景を捨てること」と言ったのは寺山修司だが、その言葉どおり、旅とは目的地に行くまでが旅である。宮﨑作品と同じく、目的地に着いてからはおまけである。カリオストロ公国に着いてからはエピローグ。

宮﨑駿はルパンを愛し、ルパンに迫り、ルパンを創生した。自分が表現したいことより借り物であるルパンの真実を見せることに集中した。

次元や五右衛門のエピソードも入れられるが、あえて存在(物語)を消すことで、逆に次元や五右衛門、峰不二子の存在感を際立たせた。

国営カジノからお金を盗んだとき、ゴート札を見てルパンは「過去と対話する」。泥棒としてやり残したことがある。だが宿題を持っているほうが人生は面白い。ルパンはニヤリと笑う。

過去に向かう。まだ出会ったことがないものに出会うのが旅ではなく、自分の原風景や過去にケリをつけることが旅。過去を精算しにいく。

過去の忘れ物に気づいたルパンが言う。

「次元、次の仕事が決まったぜ」

それは次元大介に伝えているようで、自分自身に向けた言魂。ルパンの仕事=泥棒。何かを盗みに行く。偽札を盗みに行くわけではない。そう、自分の過去を盗みに行く。

物ではなく過去を盗みに行く。過去を盗みに未来に向かう。

次元は何も訊かず、何かを察知する。ルパンの情念を受け止める。理解したわけではない。次元は何も知らない。ルパンが語るまで自分からは訊かない。ルパンが何かを始めようとしている。だったら、その祭りに付き合おうじゃないか。その関係性を宮﨑駿は完璧に描いている。

ゴート札が風に舞う。ルパンと次元の結婚式。この二人は夫婦以上の関係。タイトルバックで「カリオストロの城

幸せを訪ねて私は行きたい。寂しい心を温めてほしい。ハードボイルドの象徴だったルパンの女性の部分を表出し、その心情を吐露した。女ったらしで男性的。そんなルパンほど内面は女性的。人を恋している。寂しがり屋。そのルパンの旅に次元が寄り添う。

宮﨑駿はルパンを女性化した。次元は旦那であり、奥さんがルパン。妻が話し出すまで旦那の次元は黙って付き合う。

『炎のたからもの』が終わるまでがルパン。宮﨑駿しかできない。モンキー・パンチでも無理かもしれない。

クラリスの存在は副菜。この映画に副題をつけるなら「風と共に去りぬ

クラリスにとってルパンは「風」である。頬をやさしく撫でる風であり、クラリスの情念の炎を燃え上がらせる「風」。風は人の心をやさしく盗んでいく。

「風」は去っていく。クラリスは最後、ルパンにも見せたことのない笑顔を愛犬に見せる。クラリスのルパンへの想いは尊敬。おじさんと少女の関係。ルパンはクラリスの心を裸にはできない。だから風のように去っていく。

ルパンと次元はフィアットで複数。峰不二子はバイク。自立している。ルパンはどこまでも女性的。峰不二子のほうが男性的。カリオストロの城は、クラリスという少女と、ルパンという女性を描いた女の映画なのである。

木村拓哉と吉岡里帆の共通分母

木村拓哉

ある映画メディアの編集長とお酒を飲む機会があった。好きな女優を聞かれ、吉岡里帆と答えたのだが、容姿が美しすぎるせいで過小評価されている。

吉岡里帆の演技の質は木村拓哉と同じ。多くの役者は役に近づこうとするが、吉岡里帆木村拓哉は自分の中に役を飲み込む。そして木村拓哉という畑、吉岡里帆という畑で役を育てアウトプットする。

その証が眼だ。木村拓哉吉岡里帆は役によって眼が違う。ふたりは眼に役を宿している。木村拓哉吉岡里帆の眼はマエストロの指揮棒であり、我々をキャラクターの人生や生き様に導く。

木村拓哉が他のアーティストの歌をカバーしている映像を見ればわかる。木村拓哉は歌い方、テンポ、リズム、時に歌詞までも変える。自分から歌に近づくのではなく、歌を飲み込み、自分の歌にしている。そうやって歌はいっそう輝く。

映画は暗闇の芸術であり、地上の宇宙。スクリーンは星を映すプラネタリウムであり、我々はスターを観に映画館に足を運ぶ。我々が見上げている星は、星そのものの姿ではなく、太陽の光を浴びた姿。

吉岡里帆木村拓哉という太陽の光を役に放射することで役が一層輝く。他の役者は、市井の人々を演じるとき役に近づいてしまうから、せっかくのスターとしての輝きを消してしまう。役を最大に輝かせることができるのが木村拓哉吉岡里帆なのである。日本の俳優でこの質の演技ができるのは、この2人しか知らない。