アートの聖書

絵画、映画、ときどき音楽

PERFECT DAYS

三度目のPERFECT DAYS「自分探しの旅」という使い古された言葉があるが、それは遠くに行かなくてもいい。良い映画もまた自分を正直にさせ、自分を発見する。作品と向き合っているようで、その実は自己と向き合っている。

『PERFECT DAYS』は光と色と音が主演の映画であり、闇と沈黙と無色が主役を食う映画である。

役所広司が毎晩通う居酒屋は巨人戦の中継を流す。丸佳浩のヒットのあと中田翔のホームランが出る。野球は労働者の平日を包み込む不思議な力がある。役所広司が演じる平山の眼差しにも同じような包容力があった。

会社がある、仕事がある、居場所がある。渋谷区のトイレ清掃員の平山は毎朝大きなあくびをしながら空とスカイツリーを笑顔で見上げ職場へ向かう。新宿の摩天楼を自転車で抜ける去年までの自分だった。

小さなトイレ、押上のアパート、ダイハツ軽ワゴン車。それらは個室、千利休の茶室のような空間。平山には自分だけの本、自分だけの音楽、自分だけの小さな宇宙がある。他者によって人生の歩調や歯車が狂うこともあるが、人生の脚本を自分で書き上げる。

ヴィム•ヴェンダースはトイレの汚物を見せない。それをすると平山の仕事が立派だと誇張してしまう。ヴェンダースは平山の仕事を肯定も否定もしない。ただ見守る。それが映画監督の仕事。ヴェンダースは平山と並走し寄り添う。

僕は昨年に会社員を辞め、売れないフリーランスの物書きをしている。毎朝、目が覚めると自分なんかこの世に要らないんじゃないかと思うことがある。

会社員だった去年までは職場に行けばしゃべる人がいた。一緒にご飯を食べる人がいた。コワーキングスペースに通う今は黙々とパソコンに文章を打つ。そうか、仕事が好きだったのではなく仕事場が好きだったのだ。小さな旅が好きだったのだ。

平山もトイレを巡ることで毎日小さな旅を繰り返している。小さな宇宙を生きている。自分だけのロードムービーを作っている。ルーティンに見えて小さな冒険を繰り返している。木漏れ日のようにゆらゆら揺れている。

他人の眼を気にしない平山やホームレスの生き方は人間の強さであり弱さでもある。時代から逆流しながら世の中と調和している。この映画の人物とは年齢も大きく離れているが、心の握手ができた。これから平山は泣いて笑って、あたらしい荒野を歩いていく。

上映中、味のなくなったガムを最後まで噛み続けた。もう止めようか時折考えながら、それでも噛み続けると新しい味が生まれてきた。そんな映画だった。

三度目のPERFECT DAYS

三度目のPERFECT DAYS

スポーツニッポン校閲を辞め、登山家のエヴェレスト遠征に同行して帰国したあと、まだ文章でお金をもらうことに自信が持てなかった。職を探すなかで応募したのがトイレ清掃のアルバイト。34歳。

ネットで応募すると採用担当者から電話。「高齢の方がやる仕事なので申し訳ありません」。わざわざ電話をくれて丁寧な断りだったが、必要とされていないことに落ち込んだ。そのあと会社員ライターになり、物書きとして独立した今もトイレ清掃員はまぶしい仕事だ。

映画『PERFECT DAYS』を3回観た。どれもTOHOシネマズ新宿で朝9時の回。平山の通う浅草の福ちゃんの味が毎日違うように、一つとして同じ鑑賞はない。流れる映像は同じでも体験は変わる。

この映画に答えはない。そもそも映画に正解はない。むしろ誤解することが正解だ。友人は平山と妹の関係を「あれは妹ではなく元妻だ」と言い切る。それでいいのだ。設定を捻じ曲げるくらいの気概がなければ監督や脚本家を超えられない。映画を自分のものにできない。

過去に幼い子どもを喪失した平山は、毎朝アパートで小さな草木に水をやる。過去にできなかった育児。平山は身の回りに物を置かないかわりに未練を背負う。毎朝ご近所さんが掃くホウキ、歯磨き、髭剃り、トイレ清掃、コインランドリーの洗濯、銭湯で身体を洗う。この映画はとにかく清めのシーンが多い。日々の中で人生を浄化する、漂白する、純化する。

青い作業服をまとい、青い車で仕事場に向かう平山は「蒼の時代」を生きている。青春より少しディープでほろ苦い。青よりも蒼い。タカシ曰く変人度で10のうち9。残りの1で平山は世界と接着する。

毎朝、甘いBOSSのカフェオレを飲む。ブラックコーヒーではない。そのマイルドに平山がタカシのようなダメ人間を受け入れるマイルドさが表れている。それを映画は説明しない。だからキャッチボールはできなくても心の握手ができる。

10分の銭湯、お釣りが出ないようにお金を用意周到、電話は要件を伝えてさっさと切る。せっかちな性格なのに、わざわざ古いカメラで写真を現像する。すぐに答えが出ないものを愛する。人生に答えなどいらない。だから曲の途中でカセットテープを止めるし野球中継も途中で切り上げる。多くを語らない。アヤが涙を流しても何かを諭すわけではなく、ただ話を聞いてあげる。うなずいてあげる。だからアヤも言葉ではなくキスで御礼を表現する。言葉を交わさなくとも気持ちは通じる。そんなとき、平山は笑顔になる。

昼にサンドイッチを食べるのは、木漏れ日の柔らかい光と無音を壊したくないからだ。隣で死んだ眼をして同じサンドイッチを食べるOL。互いに話しかけるわけでもない。代わりに○✖️ゲームで触れ合う。誰が対戦相手か互いに気づかないが、見えない交流を重ねている。

平山の日常は清流のように、川の流れを見つめるように見ているこっちが心穏やかになる。同じ瞬間はない。常に流れている。『PERFECT DAYS』のパーフェクトは「完璧」や「完全」ではなく「無欠」

光も影も、音も沈黙も、過去も未来も、どれも人生の中で欠けているものはない。最初から人生はパーフェクトなのだ。それを人間は生きる中で削り落とす。この映画は朝日の映像で始まり日の出で終わった。平山が見る夢の映像はモノクロ、光がない。たとえどんな影が訪れようと、日はまた昇る。遠慮がちに妹をやさしく抱擁したように、悲しみに暮れるイヴのママを抱きしめに行く。それは他でもない、平山の青春を救う旅立ちである。