アートの聖書

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濱口竜介・白昼夢を描く世界一の映画監督

濱口竜介

令和は元年に台風19号ハギビスで幕を開け、翌年にはウイルスによって人間不信が蔓延していった災害の時代。

しかし、令和四年を迎えるにあたってようやく一筋の光が射した。悪夢を白昼夢に変えてくれる存在が現れた。

18歳から映画を観続けて20年。初めて日本人の映画監督を世界一と思う日が来た。70年代のアメリカン・ニューシネマが今でもバイブルだが、心のどこかでこの瞬間を待っていたと思う。

池松壮亮が「映画は心のワクチン」と訴えたように『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』の濱口竜介は、それを誰よりも体現している。この2本の足で、濱口監督はエヴェレストの頂上に立った。

監督のプロフィールや作品の解説はしない。2022年1月時点で、両作品とも映画館で上映されているので自分の足で目撃してほしい。映画は足で観るもの。

去年、奈良に住む弟が生後3ヶ月の娘を亡くした。気丈に振る舞ってはいるが、その傷は深く、いまも笑顔には影が差している。一生、十字架を背負って歩いていくだろう。新宿に住む自分はリモートで傷を癒すことはできないし、そんなことに意味はない。

だから弟には『ドライブ・マイ・カー』を観てもらいたい。この作品の主人公も娘を失ってなお前に進む話であり、弟の映画を読み解く力があれば、十字架を背負う強力が宿るはずだ。

弟のもとに残ってくれた6歳の娘と4歳の息子。これからの人生で自分を否定してしまう出来事に出会ったら『偶然と想像』を観てほしい。作品を観終わったあと、晴天を見上げて太陽と睨めっこを始めるはずだ。

濱口監督の映画は言語化しにくいと言われる。その理由はひとつ。役者にすべてを語らせるからだ。それがまた的確であり、明瞭。役者がセリフをしゃべるのではなく、台詞が役者を牽引する。

良くない映画の中には「しゃべる」言葉ではなく、「読む」言葉が登場する。音と文章は別。原作や脚本に映画が負けてしまうのはこのためだ。濱口監督は逆。言葉を操り、言葉を凌駕する。

ただし、それは入り口だけ。本当に大切な部分、すなわち出口は語らない。観客に覗き込ませる。だから咀嚼のしがいがある。よほど言語化能力に長けた観客でないと、映画の深淵を追随して言語化するのが難しい。そこが痛快であり、濱口映画との勝負が面白い。

濱口竜介は言葉を伝えたいのではない。会話している"人"を撮りたいのだ。ドラマチックな物語や美しい風景は弁当箱のバラン(緑色の仕切り)にすぎない。人と人が会話する。魂をぶつけ合う。それだけで世界はドラマチックになる。濱口竜介は映画の力を、人間の力を、世界の力を信じている。

そして濱口監督の「構図」「速度」「間」の取り方は、人物を見つめる眼差しから生まれる。巧妙なセリフが我々をスクリーンに釘づけにするが、何より人物を捉える距離感が他の監督とは違う。

役者には徹底的に台本を読ませ、みんなで読み合わせを何度も行う。それは俳優・女優の中に役を入れる、もしくは役に近づける意味もあるが、その変化の過程を監督が見つめることで、映画の風景を自分に宿しているのではないか。

映画は「物語」ではなく「人語り」
いかに人物を捉えるか。

濱口監督が描く「白昼夢」は、現実でも非現実でもないグラデーションを見せてくれる。

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