
- 原題:Portrait d'Irène Cahen d'Anvers(フランス語)
- 作者:ピエール=オーギュスト・ルノワール
- 制作:1880年
- 寸法:65cm×54 cm
- 技法:カンヴァス、油彩
- 所蔵:チューリッヒ美術館(スイス)
モデルは銀行家ルイ・ラファエル・カーン・ダンヴェールと妻ルイーズの娘イレーヌ。年齢は8歳。ルノワールは依頼された肖像画を正面から描くのではなく、斜め後ろからの構図で表現することで、世界一有名な少女画を描いた。翌年には、イレーヌの妹アリスとエリザベートの肖像画も描いている。

やや大人っぽい雰囲気がお気に召さなかったのか、姉妹は気に食わずに自分の部屋に飾らず、メイドの部屋に飾っていたようである。
絵画レビュー:《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》

フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》と並ぶ、少女画の最高峰。絵画史に刻まれた、最も美しく、最も残酷な一瞬。なぜこの絵は美しいのか?この一瞬こそが美の絶頂だから。これ以降、時間は少女から美を奪い続ける。幼さと成熟の狭間、未熟と衰退の境界。美ほど永遠で刹那なものはない。最も強靭で、最も儚い。
未熟こそが最大の才能であり美。この絵には見えない時間が存在している。
白いドレスは純潔の象徴であり、同時に死装束。白骨の色、消えゆく美の予兆。
背景の生い茂る葉は、シェイクスピアの『ハムレット』に登場するオフィーリアの沈む川辺。異常なまでに豊艶な少女の髪、それはエロスの象徴。髪とは、命の揺らめき、女の運命そのもの。
少女はちょこんと座り、手を添えて優艶な唇を閉ざす。可憐でありながら、男への服従を匂わせる姿勢。男は斜め上から見下ろすことで征服欲を掻き立てられる。
少女の眼は遠く、斜め上を向いている。それは抗いの眼差し。
運命へのSOSであり、世の中への反発。
彼女はすでに気づいている。自分が美という呪いにかけられた存在であることを。
《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は時間へのファイティングポーズである。
ルノワールは、この一枚に美の本質を孕ませた。美術とは「美の術」。技ではなく術。美の魔法。美の呪い。映画は雄弁に語るものであり、絵画は黙示する。絵画は沈黙の予言。絵画とは「現在への郷愁」であり、永遠を創造しようとすること。絵画とは時空をカンヴァスの中に誘拐すること。
この絵を観ると、誰もが初恋を思い出す。カンヴァスの中に初恋が浮遊している。「永遠の初恋」を描いた最高傑作。
もうひとつのレビュー:髪の滝が時間を止める
目を連れていかれるのは髪だ。キャラメル色の滝が肩でふんわり折れ、光がそこに薄くバターみたいに塗られている。一本一本を描き切るのではなく、風の流れごと掴んだみたいな筆さばき。ルノワールの得意技“空気の質感”がここにある。
横顔は観客のほうを見ない。画面の外、小さな物語のほうを向いている。聞こえてくるのは、庭の葉ずれ、遠くの笑い声、そして自分の鼓動。頬のやわらかい桃色は、まだ言葉になる前の気持ちの色。
背景は葉の海。細部はぼかし、色の音だけを残す。だから少女の輪郭がすっと浮かび上がる。髪に挟まれた青いリボンは句読点みたいなワンポイントで、「ここで一息」と目に合図を出す。
ルノワールは「美しいものは理屈より先に元気をくれる」を信条にしていた。まさにこの一枚。美術史にうんちくはいらない。前に立つと背すじが伸び、世界が半トーン明るくなる。肖像画というより、やさしい時間の採集。
少女は動かないのに、私たちの心だけがそっと前へ進む。
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ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》の凄さ
美術評論家が力説する《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》の凄さ。
静寂のなかに宿る「光の肖像」
ルノワールの《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は、肖像画という枠を超えた「光の芸術」である。彼は、少女の姿を写実的に描くだけではなく、その周囲に漂う空気までもキャンバスに封じ込めた。
この絵には、時間の流れも、物語も、装飾もない。あるのは、たったひとつの「存在」だけ。だが、その存在は、ただそこにあるだけで観る者の心を惹きつける。
なぜ、この作品は特別なのか?
それは、ルノワールが「光」という不可視のものを、純粋に形として描き切ったからである。
① 「光を描く」—— ルノワールが到達した究極の境地
ルノワールは、印象派の画家として知られるが、彼の目指したのは単なる「印象」ではない。この作品には、明確な陰影はない。明るさと影の境界線が柔らかく溶け合い、まるで光そのものが少女の輪郭を形作っているかのようだ。
顔に漂う、淡い輝き——まるでキャンバスから光が滲み出しているように感じる
輪郭の曖昧さ——イレーヌは、背景から浮き出るのではなく、背景と溶け合う
髪の毛の流れ——一本一本が独立せず、光の波のように描かれている。
この作品は、光が物体に反射するのではなく、光がそのまま形を成したように見える。
ルノワールの筆致は、少女を描くのではなく、少女の「存在感」そのものを描くことに成功しているのだ。
② 静寂のなかに潜む「生命」
ルノワールは、人物を描くときに「物語」を省くことがある。
この少女も、まるで無音の世界に生きているようだ。
彼女の表情には明確な感情がない。
微笑んでいるわけでもなく、怒っているわけでもなく、ただ、そこにいる。
だが、その瞳は、まるで呼吸しているかのように生きている。
「静かなまなざし」に宿るのは、凍りついた時間ではなく、かすかに揺れ動く生命の光だ。ルノワールは、この絵の中に「音」を封じ込めた。彼女のまとう静寂こそが、彼女の存在を際立たせているのだ。
③ 時間を超越する美
この絵は、単なる「少女の肖像」ではない。それは、時間を超越する美の象徴である。
年齢不詳の美——イレーヌは少女でありながら、大人のような落ち着きを持つ
空間の曖昧さ——背景の植物も、椅子の影も、全てが夢のようにぼやけている
「今」なのか「過去」なのか、判然としない時間感覚——この肖像は、観る者の意識を「時間の外側」に連れ去る
ルノワールが描いたのは、「ある瞬間」ではなく、永遠の時間。彼は、キャンバスの上に「儚さ」を刻みつけることで、逆説的に「永遠の存在」を生み出した。
④ 美とは、知覚できる奇跡
美とは、瞬間のなかにあるものだ。だが、それを感じ取れるのは、ほんの一握りの作品だけ。《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は、その奇跡のひとつである。
光と影が織りなす無音の世界。
静けさのなかに漂う生命の鼓動。
時間の外側に生まれた、ひとつの「美のかたち」。
ルノワールは、この一枚の絵を通じて、こう語っている。
——美とは、消え去るものではなく、「見えた瞬間」に永遠になるものなのだ。
山田五郎が解説するイレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢
山田五郎が解説する《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》
ルノワール39歳頃の作品。絵のモデルはベルギーのアントワープ出身のルイ・カーン・ダンヴェール伯爵の長女イレーヌで、年齢は8歳といわれている。この美術界のスーパースターは2018年に日本に来日した。映画『レオン』のマチルダが来日するようなもの。一生の不覚。見逃してしまった。東京・国立新美術館、九州国立博物館、名古屋市美術館を巡ったようだ。展覧会に行った人はコメントで感想を教えて欲しい。機会があれば、いつかスイスのチューリッヒ美術館で観たい。
株式会社コメ兵(KOMEHYO)

新宿にある宝石・貴金属、時計、バッグ、アパレルなどの販売をするKOMEHYOでは、イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢がブランド物のバッグを携えている看板が目をひく。
フェルメール《真珠の耳飾りの少女》の違い

ルノワールの《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》と、フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》は、どちらも若い女性を描いた肖像画として名高い。しかし、そこに込められた意図、光の表現、人物の描かれ方には大きな違いがある。
① モデルの存在
ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》:実在する裕福な少女
- モデルは、19世紀フランスの銀行家アルベール・カーン・ダンヴェールの娘で、名門ユダヤ系の富裕層出身
- 絵の中の彼女は、少女でありながら、すでに社会的なステータスと家柄を背負っている
- 画家ルノワールは、彼女の美しさだけでなく、その社会的背景も含めて描いた
フェルメール《真珠の耳飾りの少女》:架空の理想化された少女
- モデルは実在の人物ではなく、フェルメールが想像で描いた「トローニー(架空の肖像)」であると考えられている
- 明確な身分や背景はなく、フェルメールの幻想の中で生まれた美しき存在
- 見る者は「彼女は何者なのか?」「どんな人生を歩んでいるのか?」と想像を掻き立てられる
② 視線と表情
ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》:静寂と高貴なまなざし
- イレーヌは真正面を向き、視線はまっすぐで、微動だにしない。
- 口元も閉じられ、微笑みもなく、貴族の正式な肖像画のような気品
- 内に秘めた寂しげなまなざしには、少女特有の繊細さが感じられる
- イレーヌの姿勢や表情には、「家柄を背負った娘」としての重みも感じられる
フェルメール《真珠の耳飾りの少女》:動きと誘いかける視線
- 振り向いた瞬間を捉えたような構図で、口元がわずかに開いている
- 何かを語りかけているように見え、見る者を惹きつける力がある
- 目は真正面を向かず斜めを見つめ、ミステリアスな魅力が漂う
- 「あなたに何かを伝えたい」「これから何かが始まる」とでも言いたげな表情
③ 色彩と光の表現
ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》:柔らかく溶け合う色彩
- 印象派らしく、細かい筆致を使わず、肌や髪の毛を柔らかくぼかしている
- 光は穏やかに全体を包み込み、イレーヌの白い肌をより輝かせている
- 背景も明るいパステル調で、彼女の少女らしさを引き立てている
- 全体の色調は優しく、温かみがあり、ロマンティックな雰囲気
フェルメール《真珠の耳飾りの少女》:強いコントラストと劇的な光
- 光の使い方は劇的で、顔の片側は明るく照らされ、片側は影になっている
- 背景は完全な漆黒で、少女の顔と真珠の輝きが強調される
- 舞台のスポットライトを浴びたかのような光の効果があり、肖像画というよりは「演劇的なワンシーン」のように感じられる
④ 絵のテーマ
ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》:少女の気品と静けさ
- 少女を「ある家の大切な娘」として描いている
- 気品と知性、幼さと大人びた雰囲気が交錯し、静謐な美しさが漂う
- 衣装や背景の柔らかい色彩は、少女の持つ夢のような優しさを象徴している
フェルメール《真珠の耳飾りの少女》:幻想の中の美
- 少女を「理想的な美の象徴」として描いている
- 物語性があり、見る者にさまざまな想像を掻き立てさせる
- 誰なのか?どんな言葉を発しようとしているのか?なぜこの瞬間を切り取ったのか?
- 絵の中にストーリーを生み出し、観る者と絵との間に対話が生まれる
⑤ 技法の違い
ルノワール:印象派の筆触と空気感
- 筆致は柔らかく、肌や髪の毛の輪郭が曖昧で、空気の中に溶け込んでいる質感
- ぼかしや光の効果によって、より感覚的で詩的な表現になっている
フェルメール:写実的なディテールと構成
- 精密な描写を行い、少女の肌の質感や真珠の反射を細かく描き分けている
- 「光の粒」や「衣服のしわ」「唇の湿り気」といった細部のリアリティがある
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ルノワール 《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》 |
フェルメール 《真珠の耳飾りの少女》 |
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|---|---|---|
| モデル | 実在の少女(裕福な家の娘) | 架空の少女(トローニー) |
| 視線 | まっすぐ、静かで貴族的 | 振り向きざま、誘いかけるようなまなざし |
| 表情 | 穏やかで無表情 | 口元が開き、ミステリアスな雰囲気 |
| 光の表現 | 全体を優しく包む | 強いコントラスト、ドラマティックな光 |
| 背景 | 柔らかいパステル調 | 深い漆黒の背景 |
| 技法 | 印象派のぼかしと柔らかさ | 精密な写実表現 |
| テーマ | 気品と少女の成長 | 幻想の中の美 |
ルノワールの《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は、実在の少女の高貴な気品と幼さを繊細に描いた「優雅な肖像画」。フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》は、架空の理想の美を描いた「幻想的なトローニー」。
同じ「少女画」でも、ルノワールは「ある家の大切な娘」を描き、フェルメールは「美そのもの」を象徴的に描いた。
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