映画『八甲田山』は、世界映画史において最高傑作の一つであり、クライマーにとっては呪いの映画である。
一コマたりとも無駄がなく、169分の上映時間は究極の凝縮であり、崇高なる昇華。
映画は人間が成し得る最大の饗宴であり、『八甲田山』がそう。
原作は新田次郎『八甲田山 死の彷徨』。日本史に眠っていた明治35年の雪中行軍を掘り起こし、日本人なら誰もが知る悲劇に伝染させた巨作である。
その新田次郎に「原作より上」と兜を脱がせたのが映画『八甲田山』だ。
製作に3年を費やし、嘘のないウソが完成した。下手なごまかしが一点もなく賞味期限ゼロ。原作、脚本、役者、監督、そして音楽。今作においては、壮絶なる史実と、八甲田山・岩木山の雄大な自然も援護している。
ここまで色の強いスターを起用しながら、ドキュメントにしか見えない。高倉健も足が凍傷になったほどのロケの過酷さから、役者陣の決死がスクリーンに力を与え、我々を釘付けにする。
また、秋吉久美子の妖艶さが、軍隊という横へならえの同調集団の中で差別化されている。
『八甲田山』のドキュメンタリー性は木村大作による撮影が大きい。極寒ロケの厳しい条件下で、満足する機材が用意できなかったというが、逆に奏功した。
生ぬるいロケ地やスタジオで撮影していれば綺麗で味気のない画になっていたが、画面の暗さが物語の闇を浮き彫りにした。
そして黒澤明が「映画で最も重要なのは音楽である」と言うように、『八甲田山』の主役は芥川也寸志(あくたがわ やすし)のテーマ曲。
オープニングからエンディングまで、全編にわたって映画の半分以上を占めるにも関わらず、飽きるどころか後半につれ涙を誘う。メロディに起承転結があり、一つの物語となって独立している。
森谷司郎の演出は最初と最後を八甲田山の空撮で挟み、人間が入りこむ余地がないことを暗示している。
中でも印象に残るのが、ねぶた祭り。登山もまた祝祭の行為であり、自分のための儀式。ねぶた祭りは無関係のようで、登山という祝祭のメタファーになっている。
これを見せられたクライマーは、ねぶた祭り、冬の八甲田に行かなければならない。それがクライマーという生き物。
『八甲田山』は、山が祝祭であり、同時に呪いでもあることを教えてくれる。