- 原題:Les Joueurs de cartes(フランス語)
- 作者: ポール・セザンヌ
- 制作:1892〜1893年
- 寸法: 97×130cm
- 所蔵:カタール王室
原題を訳すと「カードプレイヤーたち」。セザンヌが晩年に描いた5枚のシリーズのうちの1枚で、2011年にカタールの王族が、ギリシャの海運王ジョージ・エンビリコスから購入した。価格は推定2億5千万〜3億2千万ドル。2011年のレートで換算すると、およそ200億円〜259億円にのぼる。当時、絵画史上最高額の取引とされた。
絵画レビュー
映画『シンシナティ・キッド』のスティーブ・マックィーンvs.エドワード・ロビンソンのような勝負の緊張感、命を懸けるような熱気、勝ち負けへの執着、そんな“男のドラマ”は皆無。
ふたりは初対面ではなく、旧知の仲だと思うが、かといって楽しそうでもない。勝負の一瞬でもないし、感情が爆発しているわけでもない。
人間も、ゲームも、テーブルも、幾何学的なオブジェ。「人間の心理」を描くのではなく、「空間の中に人がいる」。それだけをセザンヌは描いている。
逆に言えば、「何も起きていない時間」、その時空にこそ、人生の大半がある。感情のない表情=普遍性の獲得。喜びでも悲しみでもない、「生きている」だけの時間。朝起きて顔を洗い、コーヒーを淹れるような行動のひとつ。
殺伐したギャンブルではなく、日常の中にある楽しみ。大阪の通天閣の下でジイちゃんが将棋をさしているような、緩やかな時間。絵の中に物語があるのではなく、観る者が自由に物語を作る。
筆致は固く、人物の姿勢も堅い。色合いはくすんでいる。第一印象は重たいが、描かれている景色に重力や圧力がない。セザンヌにとっては、テーブルの上のリンゴもカードも人間も、対等なのだ。全部この世を形成している役者たち。そこにエキストラはいない。
カード遊びをしているなら、きっとお金も賭けている。そこには勝者と敗者が生まれ、片方は「失う」ことを獲得する。喪失によって重力から解放され、お金という人生で最大の重荷をおろし、人は自由を獲得する。
この絵も、偏見や固定概念を手放すことで、自由に見えるようになる。
カードゲームは、真剣に向き合いながらも、目を合わせることはなく、交わす言葉は相手を欺こうとする嘘。配られる手札は、運命や偶然、それをどう使うかは、自分次第。相手を読み、自分を隠し、静かに駆け引きをする。恋愛に近い構造。カードゲームは、単なる遊びにすぎない。だが、そこには「生きていることの密度」が宿っている。
そのほかの《カード遊びをする人々》
所蔵: オルセー美術館(フランス・パリ)
フランスのオルセー美術館が所蔵する一枚。2人構成、筆致や色合いのバランスが調和し、最もオーソドックスな一枚。人物の服(コート)のインパクトが強い。きっとコイツは負けるだろう。パイプを燻らせる男の勝ちだ。
所蔵:メトロポリタン美術館(アメリカ・ニューヨーク)
4人構成。カード遊びをする3人よりも、壁際にもたれかかりパイプを燻らせる男の柔和な表情が印象に残る。おっちゃんは、自分がカード遊びをするより、カード遊びをする人を眺めるほうが好きなのだろう。パリピではなく、パーティの雰囲気を眺めるのが好きな人。
所蔵:バーンズ財団(アメリカ・フィラデルフィア)
アメリカ・フィラデルフィアにある美術財団が所蔵するもの。5人構成でシリーズの中で最も登場人物が多い。異質である背後の少女(少年?)の存在感が強い。将来、立派な賭博師になるのか、立派なダメ人間になるのか。
所蔵:コートールド・ギャラリー(イギリス・ロンドン)
イギリス・ロンドンにある美術館「コートールド・ギャラリー」の一枚。2人構成で筆致も粗め、その分、カードの赤と青のインパクトが強い。テーブルクロスの雑さがいい味を出している。「所詮、カード遊びなんて気張らんでええよ。ワインでも飲みがなら楽しみなさい」と話しかけている。
その他の「いちまいの絵」