
ヨハネス・フェルメールが描いた数々の絵画には、しばしばワインが置かれている。17世紀オランダ、窓辺から差し込む光の中で、ワインはただの飲み物ではなかった。
ワインは、恋の駆け引きの小道具であり、時には沈黙の奥に潜む本音を映す鏡。フェルメールはその液体の輝きに、人間の心理と物語を託した。グラスを満たす赤や白の向こうに、何が見えるのか?
ワインを主題にしたフェルメール絵画
《士官と笑う女》

- 制作:1657年 - 1659年頃
- 寸法:50.48 × 46.04 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:フリック・コレクション(ニューヨーク)
フェルメール《士官と笑う女》(1657–59頃)は、フリック・コレクション所蔵の室内画で、「窓」「柔らかな光」「日常の一瞬」をそろえた代表作。
ワインが重要な意味を持つ最初の作品で、男性はビーバー・ハットから士官とわかる。男性を不自然に大きく描いたことは、カメラ・オブスクラ使用説の証拠とされる。
女性は歯を見せて笑い、モデルは不明だが妻カタリーナ説がある。向かいの男性は背を向け、フェルメールの可能性がある。光は女性に、影は男性に与えられ、男女の親密さを象徴する。
この絵でのワインは、男女の距離を自然に縮めるための舞台装置として機能している。
笑顔や会話を引き出し、親密な空気を漂わせる象徴でもある。恋愛や誘惑のニュアンスを帯び、二人の関係をやわらかく結ぶ。外の世界から切り離された、密やかな時間の象徴として卓上に置かれている。
《紳士とワインを飲む女》

- 制作:1658年 - 1659年頃
- 寸法:66 cm × 77 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ベルリン国立美術館(ドイツ)
フェルメール《ワイングラス》(1658–59頃)は、ベルリン国立美術館所蔵の室内画。「ワインを飲む女性と、ワインを飲ませる男」を描いた場面。
オランダ風タイルの床、人物像入りのステンドグラス窓、赤いドレスの女性、黒帽の男、机の上の楽譜と椅子にかけられたリュートなど、当時の暮らしと象徴的モチーフが細密に描かれる。
この絵におけるワインは、男女の間に潜む欲望や駆け引きを可視化する媒介として機能している。男性にとっては女性を酔わせて関係を近づけるための媚薬であり、女性にとっては相手の意図を測り、主導権を握るための道具である。
静謐な室内の光景の中で、ワインは二人の心理戦の中心に置かれ、その結末はグラスの底が見える瞬間まで明らかにならない。
《ワイングラスを持つ娘》

- 制作:1659年 - 1660年頃
- 寸法:77.5 cm ×66.7 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館(ドイツ)
《ワイングラスを持つ娘》(1659–60頃)は、ドイツのヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館所蔵の室内画で、《紳士とワインを飲む女》の後に描かれた。
画面手前では、男性が女性にワインを勧める。その表情と態度には下心が漂い、女性は微笑みながらも顔を背けている。その仕草は、相手の意図を察したうえで手玉に取るような含みを感じさせる。
奥の席には、もう一人の黒衣の紳士が静かに座っており、場面を観察している。この人物が本当の主人で、女性が酔うのを待っている可能性もある。
ワインは誘惑と駆け引きの媒介であり、登場人物の心理戦を静かに進行させる。控えめな奥の人物が物語の鍵を握るという構図は、フェルメールらしい巧妙な仕掛けである。
ワインが登場するフェルメール絵画
《取り持ち女》

- 制作:1656年
- 寸法: 143 cm × 130 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:アルテ・マイスター絵画館(ドイツ)
フェルメールが24歳頃に描いた初の風俗画。売春宿を舞台にした唯一の官能的作品で、「快楽への入口」としての役割を担う。娼婦にあたる女性が左手にワイングラスを持っている。ステム(脚)の部分を鷲掴みにしており、上流家庭ではないと思われる。
登場する4人はいずれも満足げで、特に黒衣の老婆=取り持ち女が主役として不気味な存在感を放つ。奥行きのない構図ながら、色彩や構図に後の作風の萌芽が見える数少ない署名・制作年入りの作品である。
左端の男がフェルメール自身との説もあるが真偽は不明で。画面は上下左右で二分割され、上半分はカラヴァッジョやルーベンスの明暗法で官能を強調し、下半分は黒布や絨毯で欲望を隠し気品を加える。
《眠る女》

- 制作:1657年
- 寸法:87.6 cm × 76.5 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:メトロポリタン美術館
25歳頃のフェルメールが「部屋の中の一人の女性」を初めて描いた作品。柔らかな光もまだ差し込まない静謐な室内を舞台にしている。画面の左にワインの白いデキャンタが置かれている。
当初は奥の部屋に犬と男性が描かれており、2023年のX線調査でその男性がフェルメール自身の可能性が示された。
眠る女性の背後の壁にはキューピッドの絵が掛かり、モデルは妻カタリーナ・ボルネスだったとも考えられる。東洋風の絨毯のようなテーブルクロスは乱れ、椅子は斜めに置かれ、テーブルにはワインや果物が残る。この幾何学的な構図が、のちのフルメール独自の画風となる。
《音楽の稽古》

- 制作:1662年 - 1665年頃
- 寸法:74.6 cm × 64.1 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ロイヤル・コレクション(イギリス)
フェルメール《音楽の稽古》(1662–65頃)は、英国ロイヤル・コレクション所蔵で、バッキンガム宮殿に展示される作品。窓からの光、市松模様の床、テーブルクロス、その上にワイングラスが置かれている。
1762年に英国王室入りした当初はファン・ミーリス作と誤認され、19世紀にフェルメール作と確定。タイトルも19世紀に付けられ、登場人物の関係は教師と生徒説より恋人説が有力である。
2014年の映画『フェルメールの謎』では発明家ティム・ジェニソンが17世紀の環境を再現し、本作を精密に模写。フェルメールが、カメラ・オブスクラ(カメラの原型)を用いて絵画制作をしたことが判明した作品である。音楽は二人の心をつなぐ橋として描かれ、沈黙の中の感情が鍵盤の響きとなって表れている。
《中断された音楽の稽古》1661年頃

- 制作:1660年 - 1661年頃
- 寸法:39.3 cm × 44.4 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:フリック・コレクション(ニューヨーク)
フェルメール《中断された音楽の稽古》(1660–61頃)は、ニューヨークのフリック・コレクション所蔵で、音楽のレッスンを中断した男女を描く。残念ながら保存状態が悪く、多くの部分に後代の加筆や修復が施されている作品である。
左の窓からは柔らかな光が差し込み、フェルメール特有の静謐な空気を室内に満たしている。女性は赤い上着と白い帽子を身につけ、楽譜を手にしながらも視線を鑑賞者に向け、まるで邪魔をされたようにこちらを見る。
男性はその仕草に気づかず、楽譜を覗き込む姿勢を崩さない。教師なのか恋人なのか、その正体も謎。
この絵におけるワインは、男女の関係性を読み解くための“鍵”として置かれている。赤ワインの入ったグラスは、単なる静物ではなく、二人の間にある感情の矛先を示す手がかりだ。それを誰が飲むのか。男性なのか、女性なのか、それとも2人で飲むのか。その問いが、恋の主体を探る糸口になる。ワインは観る者に推測を促し、静謐な室内に潜む心理的な緊張と物語性を際立たせている。
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フェルメールが飲んでいたワイン
17世紀オランダのワイン事情

オランダは冷涼な気候のため自国での葡萄栽培が難しく、ワインはほぼ全量を輸入に頼っていた。17世紀には主にフランス(ボルドーやブルゴーニュ)、神聖ローマ帝国のライン川流域、スペイン・ポルトガルや地中海諸国から輸入され、ロッテルダム港がその中心だった。以下のような種類が飲まれていたと考えられる。
ラインワイン(白)
ライン川流域(現在のドイツ)の甘口白ワイン。甘さと酸味のバランスがよく、品質も高かったため上流階級で好まれた。当時は酒精度が高いまま発酵が進む前に硫黄を加えて安定化する手法が用いられた。
クラレット(赤)
ボルドー地方の比較的軽めの赤ワイン。渋味が少なく若飲み向けのものが多かった。17世紀後半になるとオランダ人がメドック地方で葡萄園開拓にも関わったため、クラレットの輸入量も増加した。
マルヴァジア(甘口)
もともとギリシャ(ペロポネソスやクレタ島)の名産甘口ワイン。最高級品として人気があった。ギリシャ産が不足すると、スペイン・ポルトガル沿岸産の似た甘口ワイン(マラガやモスカテル等)も「マルヴァジア」として流通し、長期保存が利く特徴があった。
酒精強化ワイン(シェリー・マデイラ・ポート)
スペイン(シェリー)、ポルトガル(マデイラ、ポート)産の強化ワインも流通し、長い船旅でも劣化しにくい保存性が重宝された。甘みとアルコール度が高く、香りの強い酒として上流社会に受け入れられた。
味わいと飲み方
当時のワインは現代より甘口・高アルコールで、健康や滋養に効くと考えられていた。そのため食後酒として嗜まれることが多く、シナモン、ナツメグ、クローブ、しょうがなどの香辛料や砂糖・蜂蜜を加えた甘口のホットワイン(ヒポクラ酒)が富裕層に好まれた。冷蔵技術がない当時は常温や温めて提供されるのが普通で、現代のように冷やして飲むことはほとんどなかった。
グラスと酒器
ワインには脚付きのガラス器が使われた。ドイツ・オランダで作られた緑色ガラスのローマン・グラス(ローマー)やバーケムアイヤーと呼ばれる大きめのゴブレットが一般的だった。一方、ヴェネツィア製の薄手で脚付きのワイングラスも非常に珍重され、オランダやライン地方でも模倣品が製造されるほどだった。当時のグラスは一度に注がれる量も多く、豪華さを演出していた。
社会的イメージ
ワインはビールより高価で珍重されたため、富裕層の贅沢・洗練の象徴とされた。特に男女が一緒にワインを飲む場面は恋愛や誘惑のニュアンスと結びつけられることが多く、17世紀の絵画にもその象徴性がしばしば取り入れられた。
フェルメールとワインと絵画

フェルメールにとってワインは、「人と人のあいだ」に存在する「人間関係」を可視化する装置だった。
ワインは飲むほどに形を失い、残るのは相手の表情や仕草、声の温度、視線の角度といった、測定できない情報。ワインとは、物質から感情への変換装置である。
フェルメールはその「変換」の瞬間を、光と色と沈黙の中に封じ込めた。
グラスに注がれた液体は、必ず時間の経過を前提にしている。最初の一口から最後の一滴まで、フェルメールの絵に漂う静けさは、その時間の流れを凝縮したものだ。
ワインを描くことは、フェルメールにとって時間そのものを描くことでもあった。
フェルメールのワインは酩酊のためだけにあるのではない。光の移ろいと人の心の変化を同じグラスに注ぎ込み、二人の距離を測るための、最も静かで最も豊かな道具だった。
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ワインを描いた史上最高の絵画
フェルメールの画業と全作品解説
フェルメールの手紙と恋文
フェルメールと音楽
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