
- 英題:Goldfish
- 作者:グスタフ・クリムト
- 制作:1901-02年
- 寸法:181 × 66.5cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ソロトゥルン美術館(スイス)
クリムトの《金魚》は、自分の作品を批判する人間に対する挑発作品として知られる。
当初は《To my Detractors(私を中傷する者たちへ)》というタイトルだったが、友人の助言により《金魚》に変更したと言われる。
絵画レビュー:美に見られるという体験
クリムトの《金魚》は、鑑賞者に優しくしない。むしろ最初から、こちらを試しに来る。金色にきらめく画面、うねる身体、むき出しの背中。だがそれは官能というより、挑発だ。
中央にいる裸婦は、振り返ってこちらを見る。この視線がすごい。恥じらいはゼロ。誘惑もサービス精神もない。「見たでしょ? で、何?」という顔をしている。
クリムトが描いたのは“鑑賞される裸”ではない。“見返してくる裸”だ。ここが決定的に現代的。視線の主導権は、完全に画面の中にある。
背景はおなじみ、クリムト黄金仕様。金、金、金。装飾が洪水のように溢れ、身体と溶け合う。だが、よく見ると金は守っていない。包んでもいない。むしろ身体の輪郭を際立たせ、存在感を増幅させている。金は背景であり、舞台照明だ。
そしてタイトル。《金魚》。ここで一瞬、思考が止まる。「え、金魚どこ?」
いる。ちゃんといる。しかし主役ではない。
金魚は、女性の象徴でも、男の欲望の比喩でも、単なる装飾でもある。だがそれ以上に、この絵そのものが金魚なのだ。
水槽の中で泳ぐ金魚は、見られる存在だ。でも、金魚は人間を気にしない。勝手に泳ぎ、勝手に光り、勝手に生きている。《金魚》の女性も同じだ。見られていることは知っている。だが、それに迎合しない。
しかもこの絵、かなり、ふてぶてしい。女性のポーズは優雅だが、どこか投げやり。身体の曲線は美しいのに、媚びがない。むしろ「好きに解釈すれば?」という態度だ。
エロティックであるはずの裸が、支配できない。装飾的であるはずの女性が、主体的すぎる。この不穏さこそが爽快だ。
《金魚》は、フェム・ファタール(悪女)でも、理想の女神でもない。これは「自分の身体を、自分のものとして引き受けている存在」の肖像だ。
クリムトは言っている。
美は、消費されるものじゃない。装飾は、従属のためじゃない。見られることと、支配されることは違う。
金色の水槽の中で、女は自由に泳いでいる。こちらが眺めているつもりでも、実は観察されているのは、こっちの方かもしれない。
《金魚》は、きらびやかで、官能的で、そして驚くほど強い。これは装飾の皮をかぶった、静かな反撃の絵だ。振り返る背中に、答えはない。
アンリ・マティスの《金魚》

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