
- 仏題:Nu couché à la toile de Jouy
- 別題:ジュイ布のある裸婦
- 作者:藤田嗣治
- 制作:1922年
- 寸法:130.cm × 195 cm
- 技法:油彩、カンヴァス、面相筆
- 所蔵:パリ市立近代美術館
1922年、パリで開催された第14回サロン・ドートンヌに出品され、「乳白色の肌」によってパリで名声を得ることとなった出世作。藤田嗣治の裸婦画の頂点であり、初期の最高傑作。パリ市立近代美術館に所蔵されている。

ジェイ布は、パリ近郊の町「ジュイ・オン・ジョザス」の工場で、18世紀後半から19世紀半ばにかけて作られたプリント生地のこと。

絵のモデルはキスリングやモディリアーニなど、エコール・ド・パリの画家たちに愛されたモンパルナスの女王・キキ(本名アリス・プラン)。

1953年にキキが脳内出血で亡くなったとき、モンパルナス中のカフェが花束を贈り、藤田嗣治も棺とともに墓地まで歩いたといわれる。
絵画レビュー
横たわる裸婦を描いた絵画として、史上最高の一枚。モディリアーニ 《髪をほどいた横たわる裸婦》 、ゴヤ《裸のマハ》に比肩する。
この絵が比類なき一枚になっているのは、男女の情でも、覗き見のスリルでもなく、画家とモデルという、創造と被創造の関係性が描かれているからだ。
寝室を囲む幕は、劇場の緞帳。秘められるはずの裸が、舞台にあがる。
肘をついて横たわるキキは演者であり、何も隠さない。「私の美を抽出してみなさい」と、クレオパトラのように君臨する。
媚びない。恥じない。威圧しない。ただ誘惑する。
静けさの中で、裸身は命令文のように、画家を挑発する。その能面のような眼差しは、その画力を信じている。
装飾品など一切なく、それでも女体は王冠のように眩しい。生身でもマネキンでもない「乳白色」という幻覚色に、目は酩酊し、理性が溶ける。
漆黒の背景や脇毛や陰毛は「性の痕跡」であり闇。光を呼ぶ照明であり、「現実」と「神話」の境界線を創る。
磁器のような冷たさと滑らかさの乳白色は単なる肌ではなく、発光する感情であり、すべてを曝け出したときに宿る、官能を超えた純化の色。
美とは、何も身に着けずに立ち向かうことである。
もうひとつのレビュー:乳白の大陸に打たれたピン
最初に目が奪うのは、肌の白さだ。ミルクに月光を混ぜて、薄く薄く延ばしたような白。絵肌は布というより磁器。触れたら音が鳴りそうだ。
輪郭は一本の“手術用の線”。日本の墨線を細いメスに変えて、余計な起伏をすべて切り落とす。残るのは、寒いほど澄んだフォルムだけ。
背景はフランスの田園文様、トワル・ド・ジュイ。可憐な小話で埋め尽くされた壁紙の前に、無言のからだが一枚の大地として横たわる。物語は騒がしいのに、主役は静かだ。舞台幕のような黒が上から垂れて、ここが劇場だと知らせる。
顔は仮面、視線は標本ピン。こちらを留めつけるように真っ直ぐ刺さってくる。観客だと思っていた自分が、いつのまにか見られる側に入れ替わっている。
陰影は最小限、肉感は最低限。それでも布の皺はやたらリアルで、寝台の冷えまで伝わる。柔らかいのは肌ではなく、沈黙のほうだ。
東と西、紙と油、装飾と禁欲。矛盾の組み合わせを、藤田は「白」で統一する。乳白は甘くない。甘さを脱脂した結果の色だ。
結局この絵は、裸婦を描いたというより、“白という文明”を横たえたのだと思う。黒い幕が下りても、あの視線だけは消えない。こちらの胸のどこかに、いまも一本、細いピンが光っている。
空前絶後のアート本、登場!

藤田嗣治の最高傑作を決める企画も登場!『アートは燃えているか、』は、図版なしで名画をめぐる“言葉の美術館”です。絵を観る天才が何を語るのか、その眼で確かめてください。
→ 書籍の詳細を見る [アートは燃えているか、]
日本にある藤田嗣治の裸婦画
《舞踏会の前》

《仰臥裸婦》

藤田嗣治《仰臥裸婦》1931年,福岡市美術館
《裸婦と猫》

《五人の裸婦》

《タピスリーの裸婦》

空前絶後のアート本、登場!

藤田嗣治の最高傑作を決める企画も登場!『アートは燃えているか、』は、図版なしで名画をめぐる“言葉の美術館”です。絵を観る天才が何を語るのか、その眼で確かめてください。
→ 書籍の詳細を見る [アートは燃えているか、]
藤田嗣治の傑作絵画
藤田嗣治の企画展
裸婦画の傑作たち
日本のおすすめ美術館
東京のおすすめ美術館
妄想ミュージアム『エヴェレスト美術館』