
鏡に向かい、己を描き続けた画家がいる。わずか4年のフランス滞在のあいだに、ゴッホは約38点もの自画像を残した。

そこには、模索する若き芸術家の姿もあれば、孤独と狂気に揺れる魂もある。
パリの沈黙、アルルの光、サン=レミの渦。自らを描くことは、「生きる証」であり「未来への手紙」だった。ゴッホの自画像は、鏡に映る肖像ではなく、心の軌跡である。
パリ時代:ゴッホの自画像

ゴッホの自画像の多くはパリ時代に描かれ、その数は27点にのぼる。
オランダ時代や最期の地となったオーヴェル=シュル=オワーズ滞在中には、自画像は制作されなかったと考えられている。オランダ時代は大きな鏡を買うお金がなかった。
パリで自画像を繰り返し描いたのは、ゴッホが最も描きたかったのが肖像画であり、モデルを雇う資金がなかったため、自らを描いて練習を重ねたからである。
《パイプをくわえた自画像》

- 制作:1886年春
- 寸法:46x38cm
- 所蔵:ゴッホ美術館
パリに来てすぐの自画像。オランダ時代の暗褐色を踏襲している。「動き出す前夜」のざわめき。ここから2年も経たずにゴッホは変化する。パイプに点いた火が爆発する。いかにゴッホの変化力、憧れ力が凄いか。子どもと同じ。ゴッホの心は常に子どものまま。子どもは変化を恐れない。大人は変化を恐れる。ゴッホの最強の武器は童心。
固定観念に染まらず、つねに変化を愛し、世界を学び続ける柔らかさ。ゴッホの最大の強さは、成熟ではなく未完成。ゴッホの絵筆は、大人になることを拒んだ魂のまま、宇宙を塗り替える。
《黒のフェルト帽を被る自画像》

- 制作:1886年
- 寸法:42x33cm
- 所蔵:ゴッホ美術館
尊敬していたフランス人の画家モンティセリの肖像を真似た自画像。オランダ時代の暗褐色から、少しずつつ色彩が明るくなる。ゴッホが凄いのは模写力ではなく、共鳴する心の力。リスペクト力。ゴッホの他者愛が表出している自画像。
《自画像》

- 制作:1887年4月~6月
- 寸法:32.4 × 24 cm
- 技法:油彩、ダンボール
- 所蔵:クレラー・ミュラー美術館(オランダ)
淡い色彩で描かれた自画像。ゴッホの人柄、春のやさしさが色に出ている。立派な服で凛々しいが、眼が緑色で悲しげ。外見と内面のギャップ。その眼差しは不安げであり、自分は何者なのかを未来の自分を捜索しているようである。2016年の『ゴッホとゴーギャン展』で来日し、2025年のゴッホ展でも展示される。
《灰色のフェルト帽の自画像》

- 制作:1887年
- 技法:油彩、ダンボール
- 所蔵:アムステルダム国立美術館(オランダ)
灰色の帽子は冷たい静けさを漂わせ、緑を帯びた瞳は観る者を貫く。荒々しくも繊細な筆触で、装飾を排した自画像。ゴッホの芸術家としての覚悟を示す宣言でもある。
《麦わら帽子を被った自画像》

- 制作:1887年夏
- 寸法:41x33cm
- 所蔵:ゴッホ美術館
外面的な穏やかさと内面の激しさが鋭くせめぎ合う、痛切な肖像。
眼がいっちゃってる。服のラインの赤が血が滴っているよう。原田マハが子どもの頃、「ゴッホの絵を観るのが怖かった」とコメントしているが納得。しかし、色は柔らかい。世間の印象と、実際の人間性が異なることを表した自画像。
《麦わら帽子をかぶった自画像》

- 制作:1887年
- 寸法:40.6 x 31.8 cm
- 所蔵:メトロポリタン美術館(米国)
夏の太陽をまとったような自画像。髭も帽子もゴールドで明るい。《麦わら帽子をかぶった自画像》は同時期に5枚以上も描いているが、最も眼力が強く、明るさに満ちている。印象派の筆致で描枯れたもので、オランダ時代に描いた農家の絵を上塗りしたもの。暗褐色の時代とは真逆の色彩に、過去を塗り替え、画家として新たな地平に進もうとするゴッホの強い決意が見える。
《パイプと麦わら帽子の自画像》

- 制作:1887年9月〜10月
- 寸法:41.9x30.1cm
- 所蔵:ゴッホ美術館
パリ時代に描いた背景が白の自画像。輪郭もくっきりしている。お金がなく、節約のために、オランダ時代に描いたカンヴァスを上塗りして使用。「素」を晒すようなタッチと色彩。デザインも筆跡も粗く、原色感が強い。麦わら帽子とパイプがチャーミングで、都会の喧騒を忘れた一瞬の静けさがある。パリに来てもゴッホはゴッホ。田舎者であることを受け入れている。変わらない画家の自画像である。
《フェルト帽をかぶった自画像》

- 制作:1887年冬
- 寸法:44x38cm
- 所蔵:ゴッホ美術館
野性の化身。タッチは荒々しく、毛深く、獰猛な狼男。しかし、帽子や服は理性に溢れている。この相反する二重性こそゴッホという画家。
画家は、獣の心で世界を感じ、理性の手でカンヴァスに封じ込める。
画家は、風景を狩る。真実を狩る。深淵を狩る。まさに、ゴッホ・インパクト。
《イーゼルの前の自画像》

- 制作:1888年1月
- 寸法:65x51cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ゴッホ美術館(オランダ)
アルルに旅立つ前、パリで描いた最後の自画像。パリ時代にゴッホが描いた自画像の最高傑作。
色は鮮やか。服も顔も背景も、すべてが微細に震えている。一番強く発光してるのは、その眼。見つめているのは目の前の鏡ではなく、遠くの光。まだ描かれていないカンヴァスを、まだ知らぬ南仏の太陽を、まだ出会っていない誰かの心を。
筆を持つ手は静かに、強く握られている。髪の色とイーゼルの木目が、祝福のように呼応して光っている。髪とイーゼルの色が、輝けるアートを生み出す祝福の光源である。
アルル時代:ゴッホの自画像
アルル時代のゴッホの自画像は8点であり、数こそ少ないが、いずれも傑作ぞろいである。南仏の光を浴びながら、ゴッホは東洋の「空(くう)」の境地に到達した。
《タラスコンへの道を行く画家》

- 制作:1888年7月
- 寸法:48 x 44cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:カイザー=フリードリヒ博物館(消失)
ゴッホが住んでいた「黄色い家」から、タラスコン街道を通ってモンマジュール修道院へスケッチに出かける途中の自画像。1912年にドイツのカイザー・フリードリッヒ美術館が購入したが、第二次世界大戦中に空爆を避けるため岩塩坑に避難され、そのまま行方不明となった。
南仏の太陽を浴び、地面も麦畑も、帽子も、葉も、ゴールドに輝いている。黄金色に染まった大地、麦穂の海、そして木々の葉すべてが太陽の恵みを受けて輝いている。この暖かな金色の世界の中を、青い服に身を包んだ画家が歩く。ゴッホの服は青春のブルー。自然と人間の魂が織りなす美しい対話である。
《坊主としての自画像》

- 制作:1888年
- 寸法:61×50cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ハーバード大学フォッグ美術館(米国)
この一枚だけが自画像の中で飛び抜けて異質であり強靭であり、そして静か。
最も違うのは、背景の色。緑青(ろくしょう)色。「超越」の緑、時間の彼方から逆流するような、愛と永遠の色。
服装は普段着。ゴッホは悟りを開こうとしていない。日常を生きている。頭を剃っている。しかし、髭は残している。無常と日常。断絶と継続。世界を二項対立に分けるのではなく、揺れ動くあいだに身を置く。その在り方こそがゴッホの哲学。
この眼は何を見つめているのか。どこを見ているのか。誰を見ているのか。見るとは、そこに留まること。逃げないこと。愛すること。
ゴッホは自画像に、怒りや苦しみではなく、「それでも生きる」という柔らかな決意を宿した。
《包帯をした自画像》

- 制作:1889年1月
- 寸法:60x49cm
- 所蔵:コートールド・ギャラリー(ロンドン)
アルルでの「耳切り事件」の直後に描かれたもの。顔はやつれ、包帯が痛々しい。背景に日本の絵が飾られ、何かを訴えるような眼。
過去の修復ではなく、傷ついた「いま」と「これから」を生き抜く決意。
緑のコート、緑の壁、緑の空気は、治癒の色。
自らを描くことで、自らを再生する。他者に許しを乞う眼ではなく、自分自身に向けた眼差し。人生は一筆描きではない。何度でも、生まれ直せる。
《包帯をしてパイプをくわえた自画像》

- 制作:1889年1月
- 寸法:51x45cm
- 所蔵:個人蔵
同じくアルルでの「耳切り事件」のあとに描かれたもの。怒りも嘆きもない。あるのは、ただ静かに煙をくゆらす男の横顔。パイプの煙が、薄く空を撫でる。その煙は魂の換気のように、内側の混沌を昇華していく。
背景は橙と赤。炎のように、燃え上がる熱ではない。燃え尽きたあとの残照。温もりを残す色。それでも生きているという存在証明の色。
片耳を包帯で覆い、帽子を深くかぶり、やさしい眼差しは、自分を責めない。
「痛みを抱えたまま生きる」という肯定。破れた心でも、日々は続く。煙のように、ゆっくりと。
-
サン=レミ時代:ゴッホの自画像
-
《渦巻く青い背景の中の自画像》

- 制作:1889年9月
- 寸法:65x54cm
- 所蔵:オルセー美術館
サン=レミの療養院で描いた自画像。《星月夜》から3ヶ月後。背景も、服も、顔までも渦を描く。筆が動いたのではない。心が渦巻いている。
青は、空でも海でもない。「内なる渦」。心のなかで世界が崩れ、再び世界を取り戻そうとする再生の色。
眼は哀しく、表情にも寂しさがある。自分を奇人扱いする外見(世間)、そこに入っていけない自分を悟り、そして受け入れる眼。ゴッホの絵画は、狂気と理性の狭間で咲く。
《髭のない自画像》

- 制作:1889年9月
- 寸法:65 × 54 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:個人蔵
ゴッホが1889年9月、サン=レミの精神病院で療養中に描いた自画像で、母の誕生日に贈られた作品。髭を剃った姿で描かれており、《渦巻く青い背景の中の自画像》と並び「最後の自画像」とされるか議論がある。1998年、ニューヨークのオークションで当時史上3番目となる7150万ドル(約93億円)で落札された。淡い灰緑の背景と青紫の衣服が顔の赤褐色を際立たせ、荒々しい筆触ながら全体は静けさに包まれる。眼差しには孤独と寂しさが漂う一方、母への慈愛や幼子のような切実さが宿っている。
ゴッホ美術館の自画像コーナー

アムステルダムにあるゴッホ美術館の最初は、自画像のコーナーから始まる。
まずはゴッホの顔が「いらっしゃい」と迎えてくれる。ぜひ訪れてほしい。
ゴッホの自画像は、1886年の春から1889年9月までの3年半(33歳から36歳まで)に制作された。
ゴッホの自画像は鏡に映る魂であり、世界を変えようとする未来への手紙である。
ゴッホの自画像がある美術館
| 作品名 | 所蔵先 |
|---|---|
| 《パイプをくわえた自画像》 | ゴッホ美術館 |
| 《黒のフェルト帽を被る自画像》 | ゴッホ美術館 |
| 《自画像》 | クレラー・ミュラー美術館 |
| 《灰色のフェルト帽の自画像》 | アムステルダム国立美術館 |
| 《麦わら帽子を被った自画像》 | ゴッホ美術館 |
| 《麦わら帽子をかぶった自画像》 | メトロポリタン美術館 |
| 《パイプと麦わら帽子の自画像》 | ゴッホ美術館 |
| 《フェルト帽をかぶった自画像》 | ゴッホ美術館 |
| 《イーゼルの前の自画像》 | ゴッホ美術館 |
| 《タラスコンへの道を行く画家》 | (旧)カイザー=フリードリヒ美術館(※戦争で消失) |
| 《坊主としての自画像》 | フォッグ美術館 |
| 《包帯をした自画像》 | コートールド・ギャラリー |
| 《包帯をしてパイプをくわえた自画像》 | 個人蔵 |
| 《渦巻く青い背景の中の自画像》 | オルセー美術館 |
| 《髭のない自画像》 | 個人蔵 |
空前絶後のアート本、登場!

美術館に行く前に読むと、絵の見方が180度変わります。『アートは燃えているか、』は、図版なしで名画をめぐる“言葉の美術館”です。ゴッホの最高の自画像も、この本の中で決定します!絵を観る天才が何を語るのか、その眼で確かめてください。
→ 書籍の詳細を見る [アートは燃えているか、]
デューラーの自画像
レンブラントの自画像
ゴッホの花の傑作選
ゴッホのオランダ時代
ゴッホ展
フェルメールの画業と全作品解説
ピカソの傑作絵画と画業
藤田嗣治の傑作絵画
クリムトの生涯と代表作
ジョルジュ・スーラの傑作絵画
日本のおすすめ美術館
東京のおすすめ美術館
神奈川のおすすめ美術館
関東おすすめ美術館
オランダおすすめ美術館
妄想ミュージアム『エヴェレスト美術館』