
パリ北西の小村、オーヴェル=シュル=オワーズ。ゴッホはここで最期の約70日を生き、ほぼ一日一枚の速さで《オーヴェルの教会》をはじめとする傑作を描き出した。ラヴー旅館の屋根裏部屋を出れば、青く沈む教会、麦畑、Y字に割れる道が数百歩の範囲に凝縮し、地図とカンヴァスの距離は驚くほど短い。このオーヴェル期の背景と代表作を一気に案内する。
なぜゴッホはオーヴェルに来たのか?

1890年5月20日、ゴッホはサン=レミの療養所を5月16日に退院し、パリを経由してオーヴェル=シュル=オワーズに到着した。滞在先は村の中心にあるラヴー旅館(Auberge Ravoux)。ここを拠点に制作と散策を重ね、7月29日に亡くなるまでの約70日間を過ごした。短い期間ながら、村の教会や麦畑、藁ぶき屋根の家々を題材に、後期を代表する作品群がここで生まれている。
医師ガシェに診てもらうため

弟テオと画家カミーユ・ピサロの勧めで、印象派の友人でもあったポール・ガシェ医師が診ることになった。退院直後のゴッホには、精神面の見守りが必要だった。また、パリから北西へ約35km、列車で行き来できる距離であり、テオ一家に近い安心感を保ちつつ、都会の刺激を避けられる田園の静けさがあった。
絵になるモチーフが密集

教会、藁ぶき屋根の家々、麦畑、川べり、Y字に割れる道。歩ける半径に主題が揃っており、短時間で集中して描けた。そのため、退院後の再出発に最適だった。
費用面のメリット

ゴッホがオーヴェル滞在中に利用したラヴー旅館は、一泊3.5フラン(約2000円)ほどで安価に泊まれた。ゴッホは宿屋の娘アデリーヌ・ラヴーを何枚も描き、彼女はゴッホの最後のモデルとなった。
ゴッホの死と没後の伝説

自殺説と他殺説

1890年7月29日、ゴッホはラヴー旅館の小さな部屋で息を引き取る。通説は自殺である。7月27日夕方、ゴッホは腹部に銃創を負い、自力で旅館へ戻り、二日後に亡くなった。ただし不可解な点も残る。発砲に使われた拳銃が現場から見つかっていないこと、貧困に喘いでいたゴッホが銃を買えたのか、オーヴェルでゴッホをからかっていた少年グループの存在である。近年は「からかい半分の誤射(事故)」を示唆する他殺(事故死)説も多い。原田マハは自殺説を支持し、山田五郎は他殺説を唱えている。
テオへの最期の手紙

ゴッホの生涯は兄弟の往復書簡によって驚くほど鮮明に残っている。テオは兄からの手紙を大切に保管し、今日まで661通が伝わる。亡くなったゴッホのポケットには、テオに向けた最期の手紙が残っていた。
テオよ。これまで僕がずっと考えてきたことをもう一度言っておく。
僕はよい絵を描こうと、絶対に諦めることなく精進してきた。その全てをかけてもう一度言っておく。君は単なる画商なんかではない。君はどんな悲惨なことにもたじろぐことなく、絵の制作そのものに加わってきたのだ。僕は自分の絵に命を賭けた。そのため僕の理性は半ば壊れてしまった。
ゴッホの葬儀

遺体が安置されたラヴー旅館の部屋には、晩年作が壁を埋め、棺のまわりにはヒマワリや黄の花があふれた。友人の画家エミール・ベルナールは、強烈な日差しの下で営まれた葬儀を描いている。ピサロやタンギー爺さんも列席し、テオが静かに泣き続けていた。丘をのぼる途中、人々はゴッホのことを語り、黄色の花はゴッホの色として記憶に刻まれた。
ゴッホの初の個展

死の二か月後、1890年9月、テオは兄のための初の個展を企画する。家計の厳しさに耐えながらも「兄に送金することは、自分に送るのと同じだ」と言い切って支援してきた弟は、亡き兄の仕事を世に押し出すことに全力を注いだ。
しかし、精神の不調によりテオは、1890年11月18日、ユトレヒトの精神病院に入院。死後になってゴッホの絵が売れ出したことが、余計にておを苦しめた。
そして兄を追うように1891年1月25日、33歳で世を去る。現在では、兄弟の墓がオーヴェルの丘に並んでいる。
ゴッホ美術館の設立

テオの死後、妻のヨハンナがコレクションと書簡を守り、展覧会と出版で評価を押し上げた。彼女の遺志を継いだ息子ヴィンセント・ウィレムは、オランダ国家とともに所蔵の基盤を整え、1962年に財団化。そして1973年、アムステルダムにゴッホ美術館が開館する。テオが妹への手紙に書いているように、ゴッホの絵は、病んだ心から生まれたものではなく、ゴッホの情熱と人間性から生まれたものである。
オーヴェル時代のゴッホの代表作・有名絵画
《農家》

- 制作:1890年5-6月
- 寸法:38.9 cm x46.4cm
- 所蔵:ゴッホ美術館
ゴッホ終焉の地・オーヴェール= シュル=オワーズに来たばかりに描いた一枚。
屋根は緑に染まり、壁は白く光を跳ね返す。ゴッホにしか見えなかった“心の色”。
青や黄を愛したゴッホがたどり着いた最後の色、それが「緑」。
若さの色ではなく、再生の色。優しさと、やわらかな色。
《ドービニーの庭》へと続くこの一枚。その筆先には、赦しと、静かな「ありがとう」が宿っている。
《オーヴェルの教会》

- 制作:1890年6月
- 寸法:74 cm × 94 cm
- 技法:油彩
- 所蔵:オルセー美術館(フランス)
ホラー映画のようであり、ゴッホの中でも《アルルの跳ね橋》凌ぐほどの存在感と力を持っている。こんなアトラクションがディズニーにあってもいい。モデルは、エグリーズ広場にある教会。教会とは、魂を救う場所なのに、《オーヴェルの教会》からは「救済」の匂いがしない。空は暗く、夜が明ける気配もなく、世界の終わりを告げるようである。そもそも、この絵は“教会”を描いているのではない。聖なる建物を借りた、もっと深い個人的な風景、魂の臨界点を描いている。
《ガシェ医師の肖像》

- 制作:1890年6月
- 寸法:68.2 x 57.0 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:オルセー美術館(パリ)
白い鳥打帽に金髪、青い礼服をまとい、赤い机にうなだれるように身を寄せる姿を、ゴッホは鮮やかな色彩とともに描いた。背景は空色ではなく、人物を浮遊させるような抽象的な広がりを見せる。
はっきりとした肖像でありながら、その表情は幽霊のよう。精神科医であるガシェ自身が、もっとも病んだ魂を抱えているという逆説が、画面から滲み出ている。
《アザミの花》

- 制作:1890年5月
- 寸法:40.8 x 33.6 cm
- 所蔵:ポーラ美術館(箱根)
ゴッホが亡くなる前月に描かれた、最期に描いた花の絵のひとつ。《ひまわり》と《アザミの花》が日本にあるのは大きな幸福。
絵の具は大胆に盛られ、少し乱暴。ゴツゴツして鋭利なのに、その荒々しさが、優しさで満ちている。不器用で、あたたかい。ゴッホの絵筆は世界一やさしい刃物。
アザミの花はキリスト教では「聖花」とされるが、ゴルゴダの丘で十字架に架けられるキリスト(ゴッホ自身)を、花が包容しているように見える。ゴッホは棘さえも抱擁に変える。
《ドービニーの庭》
- 制作:1890年7月
- 寸法:53 x 103 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ひろしま美術館(広島)
命の最終章で描いた一枚。ゴッホが敬愛してやまなかった画家、シャルル=フランソワ・ドービニーの庭を訪れて描いた情景。緑がうねり、草花が風にさざめき、奥には白い壁と家々が並ぶ。鮮烈な緑と青が押し寄せるように画面を満たし、生命の息吹と同時に、どこか切ない静けさが漂う。ゴッホのまなざしが、最後まで自然とともにあったことを物語る一枚。
《黒い鳥のいる麦畑》

- 制作:1890年7月
- 寸法:50 cm × 103 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ゴッホ美術館(オランダ)
「カラスのいる麦畑」「カラスの群れ飛ぶ麦畑」で定着しているが、この鳥がカラスじゃない可能性が高い。ゴッホが夕陽や夕暮れに翔ぶ渡り鳥(雁の群れ)のシルエットを描いた可能性が高く、遺族は正式なタイトルを《黒い鳥のいる麦畑》としている。
「死」や不吉な匂いはなく、まばゆいばかりの黄金の麦畑に圧倒された。そこにあったのは、生命の輝き。ピュアゴールドというカラー名がふさわしく、金色の麦が風にそよぎ、うねる大地の律動が押し寄せる。
空に舞う黒い鳥や、暗く染まりつつある空も、不吉ではない。その闇は、光を際立たせる背景。夜明けに向かって翔んでいる。
《木の根》

- 制作:1890年7月
- 寸法:50.3 cm x 100.1 cm
- 技法:油彩、カンヴァス
- 所蔵:ゴッホ美術館(オランダ)
現在、ゴッホの遺作とされている絵画。日本では《木の根と幹》というタイトルで紹介される。ゴッホ特有のうねり、厚塗り、明るい色彩。瑞々しい生命力に満ち溢れており、これから死ぬ画家の作品には見えない。大地に根を張り、これから生きようとする意志を感じる一枚。
ゴッホの花の傑作選
ゴッホの自画像
ゴッホと浮世絵
ゴッホのオランダ時代
ゴッホのベルギー時代
ゴッホのパリ時代
ゴッホのアルル時代
ゴッホのサン=レミ時代
ゴッホ展
ゴッホの画業と炎の伝説
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フェルメールの画業と全作品解説
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