アートの聖書

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ジョアン・ミロ《花と蝶》〜情熱が突き刺さった花瓶、静物という名のフラメンコ

ジョアン・ミロ《花と蝶》1922-1923年

  • 作者:ジョアン・ミロ
  • 制作:1922–23年
  • 寸法:81.0 x 65.0 cm 
  • 技法:テンペラ、板
  • 所蔵横浜美術館神奈川

横浜美術館が所蔵する最高の一枚。作者はピカソ、ダリと並ぶスペイン近代美術の三大巨匠ジョアン・ミロ。30歳前後のパリ時代に描いた初期作のひとつ。

花の静物画なのに、闘牛を思わせる。大地を蹴る蹄の音が聞こえる。闘牛士の息づかい、観客の歓声、フラメンコのリズムまでもが、この花瓶から立ち上る。

生けられたのは、花ではなく、角。鋭く突き出た闘牛の角がマントを貫く。

ひらひらと宙を舞う蝶は、小柄なマタドール、命がけのダンス。

瓶の胴には繊細な花模様。その奥には野性が眠っている。一歩踏み出せば、熱狂のアリーナが広がっている。ここから聞こえてくるのは、風の音ではなく、情熱のフラメンコである。

もう一つの絵画レビュー

この絵、見た目は「花瓶に花と蝶」。だが中身は、だいぶ様子がおかしい。

ジョアン・ミロの《花と蝶》は、静物画の皮をかぶった自由の実験場である。花瓶はある。花もある。蝶もいる。なのに、どれもが「ちゃんと」していない。枝は意味不明な方向に伸び、花は記号のように簡略化され、蝶はふわっと浮かびながら、「ここにいる理由」を説明する気がない。

まず、花瓶からツッコミたい。この花瓶、落ち着きがなさすぎる。普通、花瓶というのは「支える役」だ。主役の花を静かに受け止める黒子であるはずだ。

しかしこの花瓶、自己主張が強い。装飾が細かく、堂々と中央に立ち、「私も登場人物です」と名乗りを上げてくる。静物画の花瓶界隈では、完全に異端児だ。

そして花。花が、花としての義務を放棄している。

咲き誇るでもなく、香り立つでもなく、「私は花です」と説明もしない。ただそこに、線と色として存在している。葉はギザギザ、茎は直角、枝は暴走気味。植物というより、思考がそのまま伸びた形に見える。

ミロの花は自然観察の成果ではない。これは「頭の中に咲いた花」だ。理屈も成長過程も無視して、思いついた瞬間に完成している。だからこそ、生々しい。生命というより、発想そのものが生きている。

そこに、蝶が現れる。この蝶がまた、いい加減だ。蜜を吸う気配もなく、花に止まる気もなく、ただ宙に浮いている。仕事をしていない蝶。意味を背負っていない蝶。象徴っぽいのに、象徴になりきらない蝶。だが、この蝶がいることで、画面は一気に軽くなる。重力が外れる。理屈がほどける。

「考えすぎなくていいよ」

背景も重要だ。金色に近い、ざらっとした空間。時間も場所も特定できない。昼なのか夜なのかも曖昧。ここは現実世界ではない。かといって夢の中でもない。発想が生まれる直前の、ニュートラルな場所だ。

ミロは、この絵で「正しく描く」ことを完全に放棄している。その代わりに、「楽しく考える」ことを全力で肯定している。形が変でもいい。バランスが変でもいい。意味が途中でもいい。

花はきれいでなくてもいい。
蝶は象徴じゃなくてもいい。
絵は説明しなくてもいい。

《花と蝶》は、静物画ではない。これは、思考が遊んでいる瞬間の記録だ。見ていると、不思議と肩の力が抜ける。「ちゃんとしなくていいんだな」と思えてくる。

ミロは、芸術を難解にした人ではない。むしろ逆だ。芸術を子どもの落書きレベルまで、正直に引き戻した人だ。この絵は、世界にこう囁いている。

「自由って、案外こんな感じでいいんじゃない?」

花は好き勝手に伸び、蝶は意味もなく飛び、花瓶はなぜか主張が強い。それでも、画面はちゃんと成立している。

それが、ミロのすごさだ。秩序を壊して、もっと大きな心地よさを作ってしまう。《花と蝶》は、自由がきちんと美しく成立することの証拠写真なのである。

ジョアン・ミロの傑作絵画

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