アートの聖書

美術館巡りの日々を告白。美術より美術館のファン。

フェルメールと音楽〜聞こえない旋律、見える歌曲、17世紀オランダの楽器たち

フェルメール《ギターを弾く女》1672年,ケンウッド・ハウス

フェルメールの絵に登場する楽器たちは、単なる静物ではない。当時の生活の音そのものであり、目の前の人物が今にも弾き出しそうな、あるいは弾き終えたばかりの余韻を宿している。17世紀のデルフトの空気には、宗教の静けさと、市井の歌声と、サロンの調べが、三重奏のように響いていた。

フェールメールの音楽主題の絵画作品

《中断された音楽の稽古》

《中断された音楽の稽古》1661年頃

  • 制作:1660年 - 1661年頃
  • 寸法:39.3 cm × 44.4 cm
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵:フリック・コレクション(ニューヨーク)
  • 楽器:シターン(シタール)

静かに流れていた音楽が、ふと途切れる瞬間。女性は楽譜を手にしながら視線をこちらに投げ、男性はなおも五線を追い続ける。机の上にはシターンと楽譜、そしてワイン。レッスンなのか、恋の序章なのか。演奏の続きは、この赤ワインを誰が口にするかで決まる。音は今も、沈黙の中で余韻を残す。

フェルメール《中断された音楽の稽古》(1660–61頃)は、ニューヨークのフリック・コレクション所蔵で、音楽のレッスンを中断した男女を描く。残念ながら保存状態が悪く、多くの部分に後代の加筆や修復が施されている作品である。

左の窓からは柔らかな光が差し込み、フェルメール特有の静謐な空気を室内に満たしている。女性は赤い上着と白い帽子を身につけ、楽譜を手にしながらも視線を鑑賞者に向け、まるで邪魔をされたようにこちらを見る。

男性はその仕草に気づかず、楽譜を覗き込む姿勢を崩さない。教師なのか恋人なのか、その正体も謎。

テーブルにはシターン(楽器)、楽譜、陶器のデキャンタ、そして赤ワインの入ったグラスが置かれている。

 

《音楽の稽古》

フェルメール《音楽の稽古》

  • 制作:1662年 - 1665年頃
  • 寸法:74.6 cm × 64.1 cm
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵:ロイヤル・コレクション(イギリス)
  • 楽器:ヴァージナル(鍵盤楽器)

窓から射す光の中、鍵盤と弓の音が静かに混じり合う。床の市松模様やフェルメールブルーの布は、音符が連なる譜面のようだ。二人の距離は近くも遠くもなく、沈黙の間にだけ和音が生まれる。フェルメールは、音楽を恋の橋として描き、聴こえないはずの旋律を視線のやり取りに託した。

フェルメール《音楽の稽古》(1662–65頃)は、英国ロイヤル・コレクション所蔵で、バッキンガム宮殿に展示される作品。画面には窓からの光、市松模様の床、フェルメールブルーのテーブルクロス、ワイングラスなど象徴的要素が凝縮されている。

1762年に英国王室入りした当初はファン・ミーリス作と誤認され、19世紀にフェルメール作と確定。タイトルも19世紀に付けられ、登場人物の関係は教師と生徒説より恋人説が有力である。

2014年の映画『フェルメールの謎』では発明家ティム・ジェニソンが17世紀の環境を再現し、本作を精密に模写。フェルメールが、カメラ・オブスクラ(カメラの原型)を用いて絵画制作をしたことが判明した作品である。音楽は二人の心をつなぐ橋として描かれ、沈黙の中の感情が鍵盤の響きとなって表れている。

 

《リュートを調弦する女》

《リュートを調弦する女》1663年

  • 別題:リュートを持つ女
  • 制作:1662年–1663年頃
  • 寸法:51.4 cm × 45.7 cm 
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵:メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
  • 楽器:リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバ

リュートの弦をつま弾く前、女性は窓の外を見やる。調弦は、音楽が始まる直前の静かな呼吸。テーブルには唱歌集、床にはヴィオラ・ダ・ガンバ──さっきまであった二重奏の残響が、部屋の隅々に漂う。背後の地図は、音楽が越える国境の広がりを暗示する。

フェルメール《リュートを調弦する女》(1662–63頃)は、ニューヨークのメトロポリタン美術館所蔵で、窓際に座りリュートを調律する若い女性を描く。保存状態は悪く、全体に暗く摩耗している。構図は優れているだけに元の色彩が失われたのが惜しい。

女性は黄色い毛皮縁取りの上着と真珠の装身具を身につけ、視線は楽器ではなく窓の外へ向かう。テーブルには唱歌集、床にはヴィオラ・ダ・ガンバが置かれ、訪問者とのデュエットの名残や、別れの余韻を感じさせる。

背景の大きなヨーロッパ地図は精密に描かれ、椅子や床のタイルなど、空間を導く遠近法の工夫も凝らされており、鑑賞者の視線を女性へと導く。

静謐な光の中、音楽と地図と視線が交差するこの画面は、恋の予感と別離の影を同時に漂わせている。

 

《合奏》

  • 制作:1664年頃
  • 寸法:72.5 cm × 64.7 cm 
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵:イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(ボストン)
  • 楽器:クラヴィコード、リュート、歌声、ヴィオラ・ダ・ガンバ

三人の奏者が作る和声が、室内に満ちている。クラヴィコードの響き、リュートの調べ、そして歌声。背景の《取り持ち女》が、音楽に潜む恋の寓意を密かに告げる。床やテーブルに置かれた楽器は、演奏の合間に息を潜めるもう一人の登場人物だ。

フェルメール《合奏》(1664年頃)は、クラヴィコードを演奏する女性、リュートを弾く男性、立って歌う女性の三重奏を描く。背景の絵画が2枚ある珍しい構図で、右の背景画《取り持ち女》はフェルメールの義母が所蔵していたもの。フェルメールも同名の絵画を初期に描いている。

本作は1669年に売却された記録が残るが、その後の所在は不明となり、1892年に収集家イザベラ・スチュワート・ガードナーが購入し、ボストンの同名美術館に展示された。しかし1990年、武装強盗に襲われ、本作を含む13点が盗難された。《合奏》はいまも行方不明で、評価額は2億ドルを超えるとされる。

テーブル下の床に置かれた弦楽器は「ヴィオラ ダ ガンバ」で、テーブルに置かれているのは「リュート」。これらの楽器が誰のものか、フェルメールは謎を残している。

 

《ヴァージナルの前に座る女》

《ヴァージナルの前に座る女》1670年頃

  • 制作:1670〜1672年頃
  • 寸法:51.5 cm × 45.5 cm 
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵:ロンドン・ナショナル・ギャラリー
  • 楽器:ヴァージナル、ヴィオラ・ダ・ガンバ

密閉された室内に響くのは、ヴァージナルの澄んだ音。前景のヴィオラ・ダ・ガンバや背景の風景画、寓意画が、音の色合いを深める。フェルメールは他の要素を大胆に切り落とし、演奏する女性だけを全身で描いた。視線の先には誰がいるのか。音楽が問いかける。

フェルメール《ヴァージナルの前に座る女》(1670〜1672年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)は、左向きに座った女性がヴァージナルを演奏する姿を描く。

同館所蔵の《ヴァージナルの前に立つ女》と対になる可能性が指摘され、制作年代やモチーフが近似する一方、19世紀までは異なる来歴を辿った。19世紀後半に仏美術史家トレ=ビュルガーが所蔵し、その後、1910年にナショナル・ギャラリーへ遺贈された。

前景には弓を差し込んだヴィオラ・ダ・ガンバ、背景には義母が所有したバビューレン《取り持ち女》、そして蓋の内側の風景画が配され、フェルメールの家ではないかと思われる。

窓を隠した密閉的な室内で、女性のみを全身で描き、他の要素(右上の絵画、左上のカーテン、左下の楽器)を大胆にカットすることでスケール感を強調。女性の首の背後には薄くサインが記される。

 

《ヴァージナルの前に立つ女》

《ヴァージナルの前に立つ女》1672年頃

  • 制作:1670〜1672年頃
  • 寸法:51.7 cm × 45.2 cm 
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵:ロンドン・ナショナル・ギャラリー
  • 楽器:ミュゼラー型ヴァージナル

豪奢なドレスの女性が、温かみある音色をもつヴァージナルを奏でる。青い椅子は、誰が座るのか。旋律が、恋の証文のように響いている。

フェルメール《ヴァージナルの前に立つ女》(1670〜1672年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)は、女性の衣装に見られる提灯袖から1670年代以降だと推定される。モデルは豪奢なドレスを身にまとい、鍵盤が本体右寄りに配置されたミュゼラー型ヴァージナルを演奏している。この楽器は温かみのある音色が特徴で、室内に穏やかな響きを満たす。

床は青と白のデルフト陶器のタイル張りで、フェルメールが暮らした街デルフトの面影を伝える。壁には2点の絵画が掛けられ、左は同時代のオランダ画家ヤン・ウェイナンツ、もしくはアラールト・ファン・エーフェルディンヘンによる風景画とされる。右のキューピッド像はカードを高く掲げ、寓意画集に基づく「唯一の恋人への貞節」の象徴を示すもの。日本未公開の絵画である。

画面右手前には青い椅子が置かれ、これから腰掛ける人物、あるいは先ほどまでそこにいた誰かの存在をさりげなく匂わせる。

 

《ギターを弾く女》

《ギターを弾く女》

  • 制作:1672年
  • 寸法:53 cm × 46.3 cm 
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵:ケンウッド・ハウス(ロンドン)
  • 楽器:ギター

モダンな楽器だったギターの弦が、透き通る筆致で震えている。画面から切り落とされた腕や足が、演奏者の存在感を強調し、背景の牧歌的風景が旋律のやわらかさを添える。

《ギターを弾く女》(1672年頃)は、フェルメール晩年作で、現在はロンドンのケンウッド・ハウスに所蔵されている。ギターは当時、リュートに代わるモダンな楽器として人気を集め、フェルメールはその軽やかな魅力を、透き通るように描かれた弦の震えとともに画面に響かせた。

女性の左腕や足はあえてカンヴァスから切り落とされ、存在感の大きさを際立たせている。背景には牧歌的な風景画が掛けられ、ギターの旋律と呼応するかのように穏やかな空気を添えている。

モデルは、同じような服を持っていたことから妻カタリーナ・ボルネスだった可能性が指摘されている。黄色いモーニングジャケット、サテンのドレス、真珠の首飾りは、裕福で洗練された生活を物語る。フェルメール作品では珍しく、光は右側の窓から差し込み、画面の明暗をドラマチックに演出している。よく見ると、カーテンの下には控えめにフェルメールのサインが記され、静謐な室内に作家の存在をそっと刻んでいる。

この絵は1974年に盗難に遭ったが、その後、無事に返還されている。

 

《ヴァージナルの前に座る若い女》

《ヴァージナルの前に座る若い女》

  • 制作:1670年から1675年
  • 寸法:25.2 cm × 20 cm 
  • 技法:油彩、カンヴァス
  • 所蔵: ライデン・コレクション(ニューヨーク)
  • 楽器:ヴァージナル

簡素な室内で、少女は演奏を止め、微笑む。ヴァージナルは愛と調和の象徴。ラピスラズリの冷たい青が、音の透明感を視覚に変える。椅子の位置や手の置き方までもが、次の和音を予告するようだ。音楽はここで途切れず、観る者の耳の奥で静かに続く。

《ヴァージナルの前に座る若い女》は、フェルメール晩年(1670〜75年頃)の作品で、女性が鍵盤楽器ヴァージナルの前に座り、演奏を中断し、黄色いショールと白いサテンのスカートをまとって微笑んでいる。室内は窓や家具が省かれたフェルメール絵画の中でも特に簡素な構成で、光は左上から柔らかく差し込む。

椅子や壁、腕の上部には高価な顔料ウルトラマリン(ラピスラズリ由来)が使われ、17世紀のオランダで壁や肌にこの顔料を用いた画家はフェルメール以外に確認されていない。ラピスラズリの顔料を灰色と白色に混ぜて、冷たい色調を表現している。この絵は《レースを編む女》と同じ布地から切り出されたカンヴァスで描かれた可能性が高い。

ヴァージナルは当時の風俗画で愛や調和の象徴とされ、特に女性とともに描かれることが多い。何もない壁、幼さが残りながらも冷静で慈悲深い女性の眼差しは《モナ・リザ》を思わせる。

 

フェルメールが聴いた、17世紀オランダの音楽

フェルメールが生きた17世紀のオランダでは、まだバッハもモーツァルトもベートーヴェンも生まれていない。それでも、街や家庭には音楽が溢れていた。

宗教音楽は厳格だった。カルヴァン派の教会では、楽器の伴奏はほぼ禁じられ、歌われるのは聖書詩篇の会衆唱のみ。響くのは、人の声だけだ。

しかし教会を一歩出れば、別世界。上流階級のサロンでは、イタリアやフランスから届いたマドリガーレやモテット、甘美なフランス歌曲が、アマチュア合奏団の手で奏でられていた。

市民の家にも楽器はあった。ヴァージナル、リュート、ギター、シターン、ヴィオラ・ダ・ガンバなど。窓辺で練習する音は通りにこぼれ、隣家に届く。ヴァージナルでは舞曲や変奏曲、リュートは愛の歌や宮廷舞曲、バロック・ギターは軽快なスペイン舞曲、シターンは明るい民謡など。

楽譜も豊富にあった。『Nederlandtsche Gedenck-Clanck』はオランダ独立戦争を讃える民族歌集。『Pathodia sacra et profana』にはラテン語賛美歌からイタリア語アリアまでが並び、国境や言葉を越えた音楽が人々の間を行き交った。

フェルメール絵画に描かれた楽器と当時のレパートリー

ヴァージナル(チェンバロ)

宮廷舞曲(アリアンドレやパヴァーヌなど)を編曲したダンス集や、変奏曲・ファンタジアなどが演奏された。ロベルト・ボエル(Susanna van Soldt)写本(1599年)には欧州各地のダンス曲(例:“Almande De Symmerman”)の鍵盤編曲が残る。ヤン・スヴェーリンク作の鍵盤曲もこの流れにあり、リンジャンクラード写本(1646年頃)にはスヴェーリンク自身の作品を含む複数の鍵盤曲が収められている。フェルメールの『音楽の稽古』に描かれた譜面は未解読だが、科学的に調査されて五線譜であることが確認され、当時一般的なシンプルな旋律を奏でる曲であった可能性が高い。

リュート

愛の歌や宮廷舞曲に用いられ、世俗歌曲やダンス曲の伴奏、あるいはソロ用に前奏曲(プリュデル)、パッサメッツィォ、ファンタジアなどが演奏された。ソロや歌の伴奏に適した柔らかな響きで好まれ、多くの新刊楽譜集に収められた。『リュートを調弦する女』に描かれる楽器もこうしたレパートリーで奏でられていたと考えられる。

バロック・ギター

17世紀後半に普及した5弦のギター。リュートよりも打楽的で明るい響きがあり、軽快なリズムの曲に用いられた。代表的作曲家にはスペインのガスパール・サンス(1640頃–1710)がいる。1674年刊行の教則本には約90曲(ほぼ舞曲)が収録されている。フェルメール『ギターを奏でる女』の楽曲も、当時流行したスペイン舞曲やイタリア風ダンス曲の可能性が高い。

シターン(西洋型リュート/チェトリン)

金属弦をピックで弾く撥弦楽器で、明るく乾いた音色が特徴。17世紀中葉に市井で大流行し、フェルメール絵画にも頻出する。恋の歌や民謡風旋律の伴奏やソロ演奏に用いられ、イギリスやフランス起源の旋律も多く含まれていた。

ヴィオラ・ダ・ガンバ

6~7弦の擦弦楽器で、貴族や富裕市民のサロンで人気を博した。独奏や二重奏用のソナタ・舞曲組曲が盛んに作曲され、オランダでもヨハン・シェンクやクリスティアーン・ヘルヴィッヒらが作品を残した。『音楽の稽古』などに描かれる未演奏のガンバは、こうした室内楽文化を象徴する。

リコーダー(縦笛)

ヤコブ・ファン・エイクが代表的奏者・作曲家。『Der Fluyten Lust-hof』は民謡や歌曲を元にした変奏曲集で、家庭内演奏や野外音楽で広く親しまれた。

その他の楽器

スケールやサクバットは式典音楽に、ヴァイオリンやハーディ・ガーディなどは民間の踊りや歌の伴奏に使われた。

フェルメールの画業と全作品解説

フェルメールの手紙と恋文

フェルメールとワインの関係

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