
- 著者:原田マハ
- 出版社:幻冬舎文庫
- 発売日:2020年8月10日(新書版は2018年5月)
- ページ数:169ページ
画家・ゴッホを愛してやまない原田マハが、南仏アルル、サン=レミ、オーヴェル=シュル=オワーズなど、ゴッホが歩いた地を巡りながら、その魂と作品を見つめ直す旅行エッセイ。自身の小説『たゆたえども沈まぬ』を生み出すまでの思索と、ゴッホへの尽きぬ敬意が詰まった一冊。表紙はゴッホ《坊主としての自画像》
書評
原田マハのゴッホへの恋心と愛情が同居した一冊。子どもの頃は、ゴッホの絵が怖かったという原田マハ。表現が激しく、感情的に見えて、"下手な絵"に恐怖心を抱いていた。その「怖さ」こそが、芸術と向き合う感性の原点だった。
大人になった原田マハは、ゴッホの凄さに気づき、アート小説の旗手として、ゴッホを研究する。世界中の美術館を巡り、書籍を読み漁り、研究者に取材をする。
そうやって、ゴッホの絵を知識として「知って」いく。その歩みのなかで、作家・原田マハは多くを得る。しかし同時に、鑑賞者・原田マハは、かつて持っていた「無垢な感受性」という宝を、静かに手放していく。知ることで見えなくなるものがある。
敬愛する原田マハに失礼を承知で書くと、ゴッホの絵に対する見方が凡庸。それは、この『ゴッホのあしあと』に限らない。『いちまいの絵』や、他の本でも同じである。
それは本人の感性ではなく、知識が邪魔をしているからだ。もし、幼少の頃に感じた感性のままにゴッホと対峙すれば、もっと見方は変わっていただろう。
逆に言えば、事実や知識を捏造したときに生み出す原田マハのフィクション力はすごい。その創造は、どこまでも優しく、どこまでも鋭い。小説を読んで何度も涙が出そうになる。知識への探究があるからこそ、アイデアも生まれる。
原田マハはノンフィクションよりもフィクションの住人。美術評論家ではなく、小説家。
原田マハはゴッホと似ている。大きな違いは、大きな成功を手にしたかどうか。
もし、ゴッホが生前に有名画家になり、地位も名声も得ていたら、どんな絵を描いただろう。ゴッホなら変わらなかった可能性も高いが、無名時代のような傑作を残すのは難しかったに違いない。
原田マハは絵を見抜く直感がすごい。絵と通じ合う眼がある。他の人なら素通りしてしまうような絵でも、「この絵、すごいよ」と紹介する。その審美眼に驚かされる。まさに狩人のような狩猟本能。だが、獲物を仕留めたあとの処理がうまくない(料理は上手い気がする)。
絵を語り出すと、知識が入り込みすぎる。美術史や評価の「正解」が、彼女の直感を覆い隠してしまう。それもまた人間らしい部分である。
この本には、知識ゼロで原田マハが感じたことが表現される箇所がある。その部分が素晴らしい。例えば、原田マハが生活をするパリ。
誰しもがパリに行くと、受け入れられた気持ちになる。そこにいるだけで、街の一部になったような気持ちになる
そして、素晴らしい捏造が登場する。
冷たい表現でゴッホに申し訳ないが、アルル行きは都落ちだ。本当はずっとパリにいたかったのだ。
この原田マハの思い込みは素晴らしい。美しい。事実とは、世界の輪郭にすぎない。感受とは、その内側の色を塗ること。原田マハのフィクションは、世界を塗り替える。
原田マハは、絵を「語る」才能よりも、絵を「自由に生かす」才能を与えられた。それは神が与えた「物語の言葉」であり、フィクションを通じて絵画に再び命を吹き込む魔法である。それは原田マハにしかできない、静かな革命なのだ。
原田マハの本
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